正しい宗教・正しい信仰を「水の流れる如く」生涯貫いていく
  • 10Oct
    • なぜ念仏では成仏できないのか

      吉田正信さんをご存知ですか? 元念仏僧侶で日蓮正宗に改宗された方です。 この方がFacebookで公開されたお話しを 転載させていただきます。 長文ですが,勉強になります。 /////////////////////////////////////// ある壮年期の友人が尋ねました。 「人として悟ることって何だと思う?」 『念仏の命』 悟りって結局、あきらめなんじゃないかなあ。  昨今の悟りブームで「今ここ」「ありのままの自分」を許容することが悟りであるとよく色んな本にも出てるように釈迦も「むさぼるな、足るを知れ」なんて言ってる。 でも、これって結局、あきらめなんだよね。  釈迦が「むさぼるな、欲望とは空しいものである」なんて言えたのは釈迦が貴族に生まれて若いころに金だの酒だの女だのって遊びつくしたからこそ気づけたんだ。   贅沢をつくしたことがある人が、贅沢をつくしたことがない人に欲望とはむなしいと言っても伝わらないと思うが・・・。 そりゃあ、誰だって金だの酒だの女だのって遊び尽くせば、つまらなくはなるでしょうって感じだよ。  だから、欲望はつきることはないので今の自分を許容しましょうというのはただ単に、 お前は金がないんだから、あきらめろ ! お前はブスだから結婚できない、あきらめろ! お前なんかに将来は見込めない、あきらめろ!   ということを、ものすごくきれいな言葉で言っているようにしか聞こえないよね。   確かに今の自分や状況を受け入れてしまえば、一時だけは「このままでいいんだ!」なんて楽になるけど、後から反動で満ち足りた人とは違う惨めな自分にフォーカスがいき、ネガティブの渦に巻き込まれてしまうよ。   結局、悟りなんてものは、上手く自分の不幸な状況から脳をだませた状態、きれいにあきらめた状態というもので 浄土真宗の立場でいうとーー 悟りは仏の境地なので、人間が体得することは無理! 「成仏する」=「悟る」ということなので、悟ったけど仏にはなっていないということはないけどーー そして悟り(仏)は不退転であり、たまに悟ってまた普通の人間の思考に戻るということもないよ。 諦めは人間の普通の思考。 それと悟りは全く違うよ。 「諦めと悟りはどう違うのか?」と問われたならば「人間の考えと仏様の考えだから比べようがない」としか言えないんじゃないかなあ。 『法華の命』 世間一般では、他界し亡くなった故人を「成仏」したというよね。 しかし、本来仏法から見るとそれは間違いで、「成仏」とは仏に成ることなんだよ。「仏(ほとけ)」という意味が世間においてはいい加減に間違った解釈が世の中を覆っているよね。 「仏様」をこの世を去られた故人と思っている人が多いと思う。  「仏」という本来の意味は、悟りを開かれた方!悟りとは、迷いや悩みが全くないことをさすんだ。そして常に幸せな境界にいて、迷いや悩みを抱えた人を救済する人のことだよ。 でも、世間では本来の意味から相当逸脱して考えられているんだよね。  「仏」とは、特別人間からかけ離れた存在ではなく、どのような人でも仏様が説かれた教えを信じ行っていけば「仏」になれるんだ! 心に生まれる迷いや悩みの扱いを完璧に心得、その方法を他の人に教えていくことが「仏」なんだよ。 「成仏」とは悩み多き心の問題を速やかに解決し、生活全般に明るいきざしをもたらすこと!そう本当の幸せを自分にも他にも施するという存在だよ。 世の中には仏教が沢山あるけど、中には人を不幸にする教えもあるんだ。特に新興宗教は人々の宗教や仏教に対する無知を利用し、金儲けのために宗教を開いている間違った宗教で人を騙すんだよね。 本当の宗教は自分の人生を大きく左右するものでとても大切な生きていく指針になるものだから慎重に考えなければいけないよ。   時代により仏説は変遷してきたんだ。 「仏」が説かれた教えであればどれでもよいというわけにいかないんだよ。 その中に散在する、教えが説かれる仏典は今の時代に適さないものや、かえって不幸になり地獄に堕ちる教えもあるのよ。  「仏」が説かれた仏教は「教えに順序次第」があるんだ。つまり易しい教えから、高度な難しい教えへと移っていく。 それは仏様の究極な悟りを初めから説いても、仏教を全く知らない人には理解できないためだからなんだ。 僕らも何かを学ぶ場合や、修得するときには易しい基本から入るでしょう?この理屈と同じで、仏教にも基本があるんだ! この基本に随って修行するところに悟りを開き「仏」に成れ「成仏」できる!   基本とは御本尊様に御題目を唱えるところにあるんだ!ここに全てがあり、更に上の境界を目指すんだ!今の末法時代は、御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えるところに成仏があり、本当の「仏」にこの世でなれるんだよ!   世の中に散在する「仏」は、ほとんどが過去世に成仏した「仏」なんだよ。今の時代では、過去の「仏」を崇めても御利益はないんだ。それぞれの時代において、尊崇する「仏」があり、今の時代は三大秘法の御本尊様であり、日蓮大聖人を「仏」と拝し奉ること、日蓮大聖人の仰せになられた御指南を実践するところに最高の境界、即身成仏の道が開かれるんだよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私が浄土真宗の住職僧侶をしていたとき、阿弥陀への悟りはまさに人として『諦める』ということでありました。 ある同僚の僧侶はかっこ『諦める』ということをかっこ『明らかに自分をみることだ!』というような摩訶不思議な解釈をしていたのを覚えています。 つまり、煩悩具足の凡夫である我々普通の人間には、仏の悟りそのものを持つことが完全に不可能というレッテルを貼ってしまいます。 そして自己存在の完全否定を強いていくのです。そこに自暴自棄が生まれ、自殺願望や他者への憎悪等が助長していくといった習性が生まれていました。 浄土真宗でいう他力とは他力に廻向がついている他力であります。 しかもこの廻向は、真の仏教に用いられているような私の側から仏の世界に向かっていくものではありません。 親鸞は自己の救いとなる仏の側から与えられることを廻向としたのです。 このような廻向の解釈は 親鸞独特なものといわねばなりません。 他力の南無阿弥陀仏(本願力)は いつでもどこでも、だれにでも既に与えられているのであると解釈されました。 この私が求めるに先行して既にとどけられている幸せであるというのです。 にもかかわらず この私は救われていないのは何故かというとそれは阿弥陀の側の失でなく、この私の側に問題が多くあるのだと言い切ります。つまり私の側の自力心が仇となり、幸せを遠ざけているとするのです。 それ故、浄土真宗では無疑の疑とは自力心のことをいい、自らのはからいをいうのであります。 このはからい(自力心)の否定が信心ということであります。また、この自力心のはからいは いかに自らの努力によってもとることは出来得ないのであるとします。 本当は一番大切なこの自分の力や向上心を捨てて一心に阿弥陀に助けを求めよと強制するのです。 「一心に弥陀をたのむ」ということはこの私のすくわれる、すくわれないということはすべて弥陀の仕事であるということであります。 それ故、この私のはからいは否定されざるを得ないのであります。 ここにはこの私のはからい、この私の造作は全く介入する余地はありません。 この私の自力心の完全否定されることはそのまま阿弥陀の法がこの私を場にしてはたらいくと言うのです。まるで『阿弥陀の奴隷』になりさがるのだというのです。 それ故、残るものは私ならぬ阿弥陀のはたらきしかありません。 それ故、蓮如は御文章五の二十二通には 「されば南無阿弥陀仏と申す体はわれらの他力の信心のえたるすがたなり・・・」 とあります。 他力の信心とはこの私を場として南無阿弥陀仏がはたらいているので、 この私のはたらきの介入する余地は全くあり得ないものにする地獄への入り口であります。 そこに他力の生活の御恩ということが成立するというのです。 御恩ということは自己の無限否定を自分が認める世界でありますからそれは本当の仏の御恩ではなく束縛と言っていいでしょう。 まさに人が仏にも悟りにも遠ざけられ真の能動的な行動としての信心がそこには生まれないのであります。 ましてや、成仏の世界観も浄土真宗では否定され、人が成仏することの意味すら喪失した世界だったのだと思うのです。 それに比べて、法華の命は即身成仏ができる世界を自分が行動として信仰実践する場があるのです。  即身成仏とは、煩悩に覆われた凡夫の身のままで仏になることをいい、自己の生命の奥底にそなわる仏性を開き、安心立命の境界となる最極の功徳をいいます。   この即身成仏は、小乗教で説くような煩悩をすべて滅することでも、また死んだ後にはじめて仏になるということでもありません。 生きているこの身このまま、煩悩を持ったままの姿で仏の境界を得るという、これは日蓮大聖人の仏法の信仰でしか可能にならないことなのです。   釈尊は爾前経において、永い期間にわたって煩悩を一つひとつ断じながら成仏に向かうという歴劫修行をせずに成仏できることを明かされました。  さらに大聖人は、機根も低く三毒強盛の荒凡夫である末法の衆生に対し、法華経寿量品の文底に秘沈された三大秘法の御本尊を受持信行するところに、煩悩を持ったまま、即身に成仏できる法門を説き示されました。   すなわち、 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(当体義抄 新編694頁) と仰せられ、大聖人の仏法を信受し、題目を唱える功徳によって、自身の煩悩・業・苦の三道が、清浄にして不動の心(法身)となり、深い智慧と慈愛に満ちた人間性(般若)を開発し、人生を自由自在に遊楽(解脱)させる働きをもたらすことになると示されたのです。  すなわち、正しい御本尊を信じ唱題に励むとき、煩悩はそのまま仏果を証得する智慧となり(煩悩即菩提)、苦悩の人生を克服できる力強い生命へと転換(生死即涅槃)されていくのです。さらにこの即身成仏の境界は、 大聖人が、 「いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(上野殿御家尼御返事 新編336頁) と仰せられているように、その徳は今世だけにかぎらず、未来永劫にまで及んでいくのです。  また、これらの功徳の実証は、ひいては父母を救い、先祖代々の人々を成仏させ、さらに未来の子孫に福徳をもたらすことにもなるのです。   このように、御本仏大聖人の大慈大悲による仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって三世にわたる福徳がそなわり、清浄にして自在な仏の境界を実生活のなかに現していくことができるのです。  これが六根清浄であり、即身成仏の大功徳なのです。   この他にも、大聖人の仏法実践の功徳は、転重軽受<てんじゅうきょうじゅ>(重きを転じて軽く受く)・変毒為薬<へんどくいやく>(毒を変じて薬となす)・現世安穏 後生善処(現世安穏にして後に善処に生ず)・罪障消滅(過去の悪業が消滅する)など、功徳の原理とその実証は無限の果報としてそなわっています。   これらの功徳も御本尊へのたゆむことない清浄な信心によって得られるのです。 (法道院文献参照) 大聖人様は『一生成仏抄』に  「深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑ひあるべからず。故に経文には『我が滅度の後に於て応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん』とのべ給へり。努々(ゆめゆめ)不審(ふしん)をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」(御書46) と仰せになっておられるます。 まさに人として悟ることは、日蓮大聖人様の教えに縁をさせていただき、自分の境涯を自在に歩み人々を幸せに導いていける本当の幸せを噛み締めて生き抜くことだと思うのですなあ感謝幸せ😃

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  • 05Jul
    • 十四誹謗

      日蓮正宗の信徒であるならば誰でも知っている「謗法」。しかし,意外にその内容については理解されていない。理解されていないからこそ,古来より,日蓮門系は分派の歴史です。「自分が正しい」という観点から行動するから分派行動に出る。「自分が正しい」のではなく,血脈付法の唯授一人の御法主上人猊下が正しいという信心に立てない輩が日蓮正宗を離れていく。まあ,そんな大きな話ではなく,きょうはごく身近にある謗法のお話しです。謗法と言えば,十四誹謗。改めて,見てみましょう。①憍慢きょうまん(驕おごり高ぶって正法を侮あなどること)②懈怠けたい(仏道修行を怠なまけること)③計我けいが(自分勝手な考えで仏法を推おし量はかること)④浅識せんしき(自らの浅はかな知識で、深く広い仏法を判断しようとすること)⑤著欲じゃくよく(欲望に執着して正法を軽んじ、求めようとしないこと)⑥不解ふげ(仏法を正しく解わかろうとしないこと)⑦不信ふしん(正法を信じないこと)⑧顰蹙ひんじゅく(正法を非難すること)⑨疑惑ぎわく(仏法を疑い、迷うこと)⑩誹謗ひぼう(仏法を謗そしり、罵ののしること)⑪軽善きょうぜん(根本善である正法を受持する者を軽蔑けいべつし、莫迦ばかにすること)⑫憎善ぞうぜん(正法を受持する者を憎むこと)⑬嫉善しつぜん(正法を受持する者を怨嫉おんしつすること)⑭恨善こんぜん(正法を受持する者を恨うらむこと)最後の4つについて,よく「怨嫉」と言っていますが,これに関連して別のブログで書いてみましたので読んでみてください。↓http://oksyu.site/%e5%81%a5%e5%ba%b7/%e5%bf%83%e3%81%ae%e5%81%a5%e5%ba%b7/post-1023/

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  • 18Apr
    • 皇族と正宗信仰

      日蓮正宗福島地方部総会後の布教講演は、本法寺の新ご住職 原田篤道御尊師によるものでした。講演の趣旨は、一念さえあれば思いがけないような折伏も可能となるということだったと思います。その一例として、皇族への布教に関するエピソードが紹介されたのです。今回もしっかり聞き取っていたわけではないので、誤解や聞き逃しがあったかも知れませんがまとめてここに紹介したいと思います。この話は、実は私が入信した昭和50年ころにも一端を聞いたように覚えていますが、これまたボーッっと聞いていましたので断片でしかありません。そこはどこかというと、後もに触れますが東京杉並の高円寺の北条宅でした。そこが、創価学会の高円寺の拠点になっていたのです。皇族入信までの経緯さて、入信した皇族という方は貞明皇太后です。この方は昭和天皇の母であり、大正天皇の后(当時は貞明皇后)であった方です。皇太后として紹介してましたから、入信は昭和時代になってからでしょう。発端は、松平容保の子、恒雄の妻であった松平信子さんが入信したことに始まります。信子さんは、貞明皇后に仕えて宮廷内で大きな発言権を持っていたようです。彼女があるとき、神田神保町の古本屋街に行き、とある仏教専門のお店に入り、「おすすめの仏教書はありますか。」と店員に尋ねたそうです。その店員は即座に「正しい仏教をお求めなら日蓮正宗のお寺にご案内します。」と答えたそうです。たまたま法華講員だったわけです。それがきっかけで信子さんは入信し、信子さんはやはり華族の北条ツネ子さんを折伏し、ツネ子さんが貞明皇后を入信に導いたというわけです。私が40年以上の前に話を聞いた高円寺の北条家というのは、ツネ子さんの弟の北条雋八(しゅんぱち)さんの家でした。そのころは、ご主人がなくなったばかりで、奥様の克子さんが独りで住まわれていました。克子さんは本当に旧華族の女性という優雅さを備えた女性でした。私達学会青年部が無遠慮にお邪魔しても常に優しくもてなしてくれました。貞明皇太后に下付された御本尊本山から、貞明皇太后に常住御本尊とお守り御本尊が下付されたということです。常住御本尊は、昭和26年に皇太后が亡くなられた後、お寺(池袋の常在寺?)に返還されたということでした。守る方(法燈相続する方)がいなければ仕方ないことです。しかし、御守本尊は今の天皇陛下に引き継がれているということでした。これってすごいことですね!どのように「引き継がれているか」などと質問はしませんでした。したところで、答えられませんでしょうし。興味深いところです。

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  • 26Mar
    • この命、今日限りと思って生きる

      知人の葬儀に参列昨日、知人の葬儀に参列してきました。もちろ、義理での参加ではありません。義理とはなんぞやという話にはしません。訃報を伝える時、「うちの葬儀の時、あの人からはもらってないから・・」などということを聞くとがっかりします。とくに、正しい信仰をする者が言う言葉ではないと思います。葬儀の当事者にとっても、私の父の時の経験では義理で来ていただいた職場の方には本当に申し訳ないなと思いました。さて、私が昨日参加したのは、昨日の喪主・即ち故人のご家族への思いからです。奥さんはお寺のために尽くしてくださっているという思いから、心から読経・唱題・焼香をさせていただきました。1~2時間の葬儀のために150km離れたところから往復一日かけても、義理での参加ではないので負担に感じることはありませんでした。寿命について考えるところで、故人は54歳の寿命でした。現代では短命とも言える死に接したことは少々ショックでした。仕事が忙しく滅多に会うことのない人でしたから「過労死だったのかな」とか、救急車に運ばれてそのままだったと聞いて「家族は心臓マッサージはしたのかな」とか、いろいろ考えても、結局は「寿命か」と納得するしかありません。それでも、臨終の相を見て生前よりの若々しくしかも安らかな感じなので、普段お寺に参詣することがあまりなかったとは言え、年に1度程度の御登山で一緒になったこともあったので御本尊の御力を感じ、安心したような次第でした。長寿の時代、70代以下で突然のようになくなるとやはり悲しみが先に立ってしまいがちですが、必ずしも長生きすることばかりが良いとも限りません。その人のそれまでの一生がどんなものであったのかということこそが重要なのであると思います。90代まで長生きすることをよく聞く一方で、60代以下でなくなる方も多くなったような気がするこの頃、毎日、私自身の人生を考えるのが日課となっています。この生命、きょうで終わっても悔いはないか、一遍でも御題目を多く唱えて精一杯自分の可能性を生ききろうと念じながら・・・。

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  • 22Mar
    • ブログのタイトルを変更しました

      数少ない読者の皆様、ご無沙汰しております。さて、この度思う所ありましてブログのタイトルを変更させていただきました。これまでは、正しい宗教・信仰について迷っている方を読者として想定して書いてきましたが、今日からは、すでに正しい宗教である日蓮正宗の信心をなさっていらっしゃる方を読者として想定して書いていくことにしました。そのほうが、更新頻度も多くなるし、書くこともたくさんあるからです。このように変更したからと言って、まだ入信・勧誡されていない方にとって読み応えのない内容になるわけではないと思います。むしろ参考になること、入信決意のきっかけとなることも多くかけると思いますので、楽しみにしていてください。そして、なによりも、すでに信心されている方にとってあらためて「生涯この信心を貫こう」と思えるきっかけになれば幸いに思います。ところで、わたしはこのブログの他にいくつかのブログを書いています。当ブログは、他のブログよりもより本音に近い自分を表現できるのではないかと思っています。ちなみに、こんなブログです。↓https://ameblo.jp/okscc/http://ameblo.jp/oksyu/https://ameblo.jp/okhelth/http://oksyu.site/http://simple225.click/

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  • 08Jan
    • 地獄に堕ちん事疑いなき故に・・

      明けましておめでとうございます。今年も当ブログのご愛読よろしくお願いします。さて、昨年末、妙観講さんの応援を得て大折伏戦を展開しました。その結果12月、約20名の入信者がありました。この戦いを通して、実に多くのことを学びました。その中でひとつあげるなら、「順逆を選ばず折伏する」ということです。即ち、「当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人(順縁の衆生)は仏になるべし、謗ぜん者(逆縁の衆生)は毒鼓の縁となりて仏となるべきなり。」と、日蓮大聖人が仰せのように、日蓮正宗の信仰をしない者は堕地獄必定なのだから、相手がどんな人であっても強いて聞かすべきであると説いている。たとえ聞いて信受しなくても、一旦地獄に堕ちた後、法華経に縁した功徳により成仏することができるのです。このことから、今回は妙観講の方々とともに電話や飛び込み訪問で多くの方と縁を結び、また、入信される方がありました。相手を選ぶことなく、どんな方にも「南無妙法蓮華経」を教えていくという尊い作業こそが折伏であり、仏の使いとしての活動だと確信しました。

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  • 02Dec
    • あす(12月3日)郡山で仏法講演会開催

      明日の日曜日に仏法講演会を大々的に開催します。私の菩提寺 郡山市の寿海寺(℡024-952-7500)が会場です。正しい仏法を求めている方は万難を排してご参加願います。これには、妙観講の方々の絶大なる応援を頂いています。お陰さまで、多くの方々の参加が予定されています。そのため、講演会を1回増やしました。午後1時と4時の開催です。もちろん、さらに希望があれば夜の部開催も可能です。是非、お友達・ご家族お誘い合わせての参加よろしくお願いします。

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  • 19Nov
    • 与同罪を恐れる

      法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云。謗法を責めずして成仏を願わはゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし。日蓮正宗の信徒の中には、この御金言を知らない方がいます。特に創価学会出身者が多いかもしれません。即ち、「御授戒さえ受けていれば成仏は約束されている」という思い込みです。しかし、私たちは多くの現証を見てきました。正宗の信徒でも、修行をしないものは成仏できないのです。現証ほど厳しい現実はありません。「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば」=折伏行を行じない者は「師檀ともに」=僧侶であろうと、信徒であろうと「無間地獄は疑ひなかるべし」妙法の功力が絶大なだけに妙法を知りながら妙法を認めない邪法を見過ごすことは無間地獄につながるのです。邪法とは、言うまでもなく仏教以外の宗教のすべて日蓮正宗以外の教団のすべての教えを言います。

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  • 13Nov
    • 妙観講さんの応援をいただきます

      我が講中で年初からお願いしておりました妙観講さんの応援をこの度いただけることになりました。妙観講は、日蓮正宗法華講の最大の講中です。昔は、最大の法華講中と言えば創価学会だったのですが、御存知の通りすでに破門になっております。一時期、妙観講も創価学会みたいなものではないかと誤解される事がありました。しかし、大草講頭と池田大作とは比べるのも恥ずかしくなるくらい天地雲泥の差があります。大草講頭の純粋な信心、正しい信心が貫かれることによって講中は目をみはるような発展を遂げてきたようです。それは、創価学会の発展がバブルそのものであったのとは違い、中身の濃い発展のように思います。それは、本山・猊下に信伏随従し、指導教師の指導に従うことによってなされてきました。12月に応援いただくのを前に、先週総本山で佐藤副講頭さんのお話を伺ってきました。そして、昨日の御講終了後、我が講中で大草講頭の講演をDVDで視聴しました。大講頭の大確信と豊富な体験談に一同勇気づけられました。今年残す所1月半を精一杯折伏に精進してまいりたいと思います。

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  • 23Oct
    • 積善の家には必ず余慶あり

      昨日わが菩提寺にて御会式がありました。甚深の法要・儀式の後に布教講演がありました。講師は会津・喜多方市の万法寺御住職北正修御尊師でした。師は、久しぶりに耳にする易経の言葉「積善の家には必ず余慶あり」を例に挙げながらも、真の福徳についてご指導されました。御指導を拝聴したことをわたしなりにまとめますと、本宗における真の福徳とは、お題目の功徳である。同じ御題目を1時間唱えての結果は人によって異なる。華報と果報があって、直ぐに結果が出る(華報)場合と、時間がかかる場合とがある。しかし、因果倶時の原理から言えば、お題目にはすでに結果が備わっているのである。お題目は、骨髄に達するまで唱えるべきである。、

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プロフィール

jjih33

性別:
男性
自己紹介:
福島県郡山市の日蓮正宗寺院・寿海寺の信徒です。 住居の栃木県から菩提寺まで通っています。 約20年...

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