イン哲の朗読を聞いて居た時、ふと、頭の中で
何かが
バババッと連結!つながった!
atha〜さて〜
個であることを超えて、ひとつであることを達成した聖者がいました
その人の中に個人という感覚はありません
他者を自分と異なると考えられない人
自・他…つまり世界と自分が分離しているという感覚のない人
知識を知る人、賢者です
逆に、世界と自分は分離しているという考えは無知のことです
(※不二一元論)
無知によって凡夫は「自分は無力だ」と考えます
「小さくて無力なわたし」
というのが凡夫の考えです
だってるーぱ凡夫ですし~
だから
なあんにもできない
無力で小さなるーぱなの
これを無知というのよね~
とつぜん挨拶してみたりして(笑)
『言霊学』でいう禊祓い…は、物語として語られている古事記の禊祓いの項を、以下の様に解きます。つまり…「彼」…(伊邪那岐大神)を 個人性を超えた一者(人類)としてその身を禊ぐ人として解く。人類として全ての罪(積み)汚れ(自我意識から生まれた気枯れ)を背負って、その身を禊祓いすることで人類を浄化するというのです。まるでイエスキリストの様です。
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)
で、身を削ぎ・注ぎます
そのことが冒頭の「バババの連結」でわかったことでした
そういうことだったのか〜知らなかったぁ〜
遥か昔の日本人の祖先が残した叡智が、古事記に残されており、それは神話でもなんでもなく、ただ心の有り様が『イマココ』で、どう生まれ、変化し、意識され、現象となって世界を作っていくかを解いた書物です。
トツカノツルギは、大神が振るう判断のつるぎです。
全ての罪穢れを一つ残らず掬いとって新しい意味を与え、存在させていく判断力です>>>一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむ」とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命、汝(みまし)然したまはば、吾(あ)は一日に千五百(ちいほ)の産屋を立てむ」とのりたまひき。ここを以(も)ちて一日にかならず千人(ちたり)死に、一日にかならず千五百人(ちいほたり)なも生まるる。
判断力を『振るう』〜振る、奮う〜言葉は奮って轟かせるもの。そうやって世界に震撼させていく。
言霊によって
神社の鈴はその形而下のメタファー。鈴は、口を表して、それを「震わせて」言霊を宣り効かせる
宣りは『法』でdharmaダルマ
きりゑみま
あわぎはらいまし
こころより
こめたる夜の
あけるしじまに