モンゴル人横綱『照ノ富士』の化粧まわしに現代アート。
アート系のニュースをネットで見てたら、この化粧回しが紹介されていて驚いた。
外国人なのだから、日本の伝統的図柄に興味がないのは当然だ。
化粧まわしはなんでもありの時代だ。それも当然の成り行きだろう。
時代は確実に変わりつつある。
伝統にこだわりすぎて、国技として日本人力士だけで相撲業界を運営しようとすると、客に飽きられ、相撲人気が陰り、興行ビジネスとして効率性が悪くなるという判断から外国人を起用したのだが・・・・。
その判断は正しかったのだろうか?
初めての外国人力士、高見山の頃は相撲協会の思惑通りだった。
つまり、「外国人は腰高で足腰も弱く絶対横綱になんかなれない」
それが、相撲協会の一致した見解だった。
現に高見山は大関にもなれなかった。相撲協会の期待通りの活躍をしてくれたと言って良いだろう。
これは当時の相撲協会が、プロレスを興行ビジネスの成功事例と見て、影響を受けたことも原因の一つだろう。
「日本人が外国人をやっつける」戦後の一時期、国民が熱狂した力道山の大活躍は協会の理事達の脳裏にも焼き付いていたはずだ。
ところが、相撲協会のそんな思惑は2005年くらいから狂い始めた。
なんと、横綱は全員外国人になってしまった。
横綱が全員外国人になった時から私は相撲に興味を無くした。
相撲が明らかに変わってしまったからだ。
大の相撲ファンだった私が相撲を見限ったのだ。
それ以来テレビは観ない。当然本場所を観にも行かない。
そもそも私は相撲を単なる格闘技スポーツとして観ていなかった。
歌舞伎や能に通じる様式美も同時に鑑賞していたのだ。
そして力士は役者の側面も持っている。大向こうを唸らせる千両役者、それが横綱だ。
行司の呼び出しから、組み合うまでの一連の動きは神事であり、伝統芸能と言っても良い。
勝ち負けだけを競う格闘技とは異質のものだ。
私と同じ気持ちの人は少なくないと思う。
ところで、最近、日本人の新弟子志願者が極端に減ってるらしい。
入門しても、平和ボケしたぬるま湯育ちの子供たちが、厳しい修行に耐えられるとは思えない。
だから新弟子になった少年達を辞めさせない為に、各部屋の入門後の条件が緩くなり甘くなる。
ガチンコ勝負が当たり前になった昨今、それは確実に結果に現れる。
だから、ますますハングリー精神のある外国人との覚悟の違いが力の差となり、横綱は全員外国人という時代がこれからも続くだろう。
日本の運動能力の高い子供達はもっとカッコ良いスポーツに憧れる。
力士の体型は日頃の常識からすれば、なりたくない自分の体型だ。
こうして日本人力士のなり手がいなくなるのだから、外国人に頼る他、仕方がない。
もう後戻りもできない。
そして、外国人横綱が帰化し、親方になり、ますます外国人比率は高まるだろう。
現状がこのまま進めば、相撲=外国人の格闘技スポーツになってしまうかもしれない。
その内、行司も外国人になり、衣装も変わるのかな?
そうなると、チョンマゲにこだわる必要もなくなるだろう。
当然、塩を撒く意味もなくなる。
相撲は格闘技? スポーツ?
私は伝統的な国技だと思っていた。
外国人がメインの国技とは名ばかりのコスプレスポーツを私は見たくはない。
外国人が演じる能や歌舞伎を見たくないのと同じ理由だ。
もちろん、外国人力士達に何の罪も落ち度もない。
問題は相撲協会にある。
出典