息子が引っ越す予定。


予定と書いたのは・・・ほんとに、ちゃんと、引っ越しができるのか・・・。


あ~ぁ、ため息。


25にもなる、アホ息子の、引っ越しの心配をしなきゃならないわが身。

・・・・・育て方が、間違ったのね・・・・。


就職した時の引っ越しまでは、私がほとんど手配した。


今度はさすがに、社会人やってるんだし、部屋も自分で決めてんだし、ひとりで準備してるんだろうと、思ってました。


おとといまで。


そしたら昨日、お金をいついつまでに振り込まなきゃならないからと電話がきた。


はいはい、どうせ、そんなことでしょうよ。

なら、早く言えっていうの。

期日ぎりぎりになって・・・やっぱり、アホチンだ。

そして今日、また電話。

今度の土日に、妹の手を借りて引っ越すと。

引っ越しや頼んだの?と聞けば、いいえだって。

車を持ってるわけじゃなし・・・。


出張から帰った夫に、この話をすると、行くと言う。

私は、ちょっと無理よ。



でもね、いつだって、私が一人で、大掃除してたのよ。


それに、うちのは行くったって、電車で行くんだし。



はてさて・・・どうなることやら・・・プンプン




何で、こうなるかな・・・。


昨日、ブログを書く気にもなれなかったよ~ガーン

イスラエルの若い映画監督が撮った作品です。


2004年の作品。


シリアとイスラエルの間にあるゴラン高原は、もともとシリアだったのですが、イスラエルに占領されてから無国籍地帯になる。


そこに住む家族の、次女の結婚を通して、物語は進みます。

次女モナは、写真見合いで、親戚だというシリアのテレビタレントとの結婚を決める。


モナがこの地域から出てシリアに行くということは、二度とこの地に帰ってくることが出来なくなる。

この地域から、世界中どこへでも往来は可能なのだが、ただ、シリアだけはダメ。

結婚は、許可証をとって、やっと認められるという感じ。


モナは不安だ。

ほとんど知らない相手との結婚に対する不安と、もし、ダメだとなっても二度とここに戻って来れないという不安と。


家族も久々に集まって来るが・・・ここにも、たくさんのドラマがありました。


モナの長兄は、8年ぶりにロシアから帰国。この地を離れ、宗教を捨て、ロシア人と結婚した長男は、父親とは絶縁状態だった。わだかまりは、簡単に溶けない。


次兄はイタリアで何やら調子よくビジネスと張り込んでる感じだが、何か怪しげ。


弟はシリアに行ってる。だから、この映画で彼はずっとシリア側の国境にいて、メガホンで兄や姉たちに声をかけている。「姉さん、コーヒーも一緒に持ってきてよ」ってな具合に。


そして、この映画のもう一人の主人公、モナの姉アマル。

彼女は、自分が住んでるこの地域と同じように、自分自身も縛られてるこの状態にうんざりして、これからのことを考えている。


そんな、家族のそれぞれの思いとともに、映画は進む。


そして、いよいよ、国境へ。

花嫁が着く。

シリアの花婿も、一族とバスで到着。


それぞれの間に国交はないので、その間をとりもつのは、赤十字の女性職員。


モナのパスポートを持って双方の国境を行き来するが・・・・。


イスラエルからの出国とみなす側と、シリア内を移動とみなす側の、双方の意地の張り合いみたいなことになる。

どちらも譲らない。

女性職員は何度も何度も双方に掛け合うが・・・。


そんな、待たされてる時に、花婿が花嫁に声をかける。

「いつまでも待ってるよ」

モナはその時はじめて嬉しそうな顔に・・・。


どうにも、らちがあかないとなったとき・・・・その時、モナがとった行動とは・・・・。



この映画に感動しました。


映画って、こういう作品を作ってこそ、意味があるのではないかと、そんな気にさせてくれました。

素晴らしい作品です。


上手いとか下手とか、そういうことじゃなく。

暗い映画でも、悲しい映画でもなく。

でも、途中に何どかホロリと涙があふれる。


映画の終わりは、意味深です。


観てる側は、彼女たちに幸せが訪れるよう、ただ祈るばかりです。



良かったら、ぜひ観て下さい!!


タイトルを、ズバッといきます。

というのも、膀胱がんの治療について、あまり語られてないということを知りました。


私も、この病名を告げられ、最初は落ち込むだけだったのですが。

でも、もう、なったものは仕方ない。

あとは、どうこの病気と闘っていくか・・・そう考えるようにします。


ネットに膀胱がんとの闘いを詳細に書かれている方に、励まされました。

励まされるし、教えられるし、何よりひとりじゃないって、思えることが救いです。

でも、その方たちが言うには、膀胱がんについての記述は、他の部位のがんより非常に少ないそうです。

場所が場所だけに、なんだか、とにかく理由はわかりませんが・・・。

まぁ、この病気の大半は、年配の男性だというのも、その理由のひとつかもしれません。


そんなわけで、私は、若干、この分野では若手に属するのかな(笑)

そういうことなら、私も書いてみようかな・・・と思ったのです。

まぁ、いつまで続くかわからないですけど・・・。

『膀胱がん』って、タイトルをあげれば、検索するときも早いのかと思いズバッといきました。



では、はじめに。自己紹介から。


関東在住、女性、現在50歳代前半。家族は夫と、家を離れた息子と娘がいます。

両親健在。義母健在。いずれも同居してない。


若い時に金融機関に勤め、在職期間中、ほぼ窓口係。

下の子が小3の時にパートに出る。古巣の仕事で、また窓口を10年近く。

次に、検診事業の受付係を約1年半勤める。


今思うと、トイレは我慢したことが多かった・・・・ガーン


以下、私のメモ記録から。


2004/10/4 膀胱炎の診断 (トスキサシン処方される)

   (でも、この時より以前にかかった記憶がある)

2007/9/5 膀胱炎 (フロモックス) 効かなかった。

同/9/12 (クラリシッド)  ここまでM医師。


2008/3/26 めまいでW医師にかかる。(血圧高く、アムロジン服用始める)

2008/5/28 尿が少し赤いように見えたので尿検査をしてもらう。潜血±。

2008/10/27 膀胱炎 (クラビット)

2009/4/6 膀胱炎(クラビット)

2009/4/10 同(クラビット)

2009/7/末 血尿がひどい。今までにない真っ赤っか。でも、膀胱炎を笑顔で言われた。(クラビット)


2009/9/? 同(クラビット) 旅行を控えていたので、少し余計に薬をもらった。しかし、旅先で血尿がさらにひどくなる。でも、帰宅後おさまったので様子見。

2009/10/7  また血尿。W医師は膀胱炎が癖になったんだとしか言わないが、不安を訴えた。近くの泌尿器科に紹介状を書いてもらう。(ちなみに、その病院に泌尿器科があることを知らなかった。失敗だった)


同日 T病院K医師にかかる。尿検査と膀胱鏡検査。画像を見ながら『膀胱がん』と言われる。


決して早くなかったと。

見える限り9個あると。いますぐどうのこうのはないけれど、これから死ぬまで膀胱がんと付き合うようだと。

うちでも手術はできるが、泌尿器科医は一人だという。地域の総合病院がよければ紹介状を書くと。CT検査はうちで一週間後にやるから、そのあと紹介状を書くと言われた。(ちなみに、この病院で手術の場合、入院は10日間という)


2009/10/13 CT検査。紹介状を書いてもらう。


2009/10/14 N病院T医師にかかる。手術だねとなり、でも混んでるから・・・と11月11日に決まる。もっと早くお願いできませんかと言ったが、これでも無理して入れたと言われた。

同日、術前検査ということで、心電図、血液検査をする。胸部レントゲンは、T病院のをプリントしたようだ。


この間、とても不安な気持ちで、結構まいった・・・。


2009/11/10 入院 看護師は説明にきたが、(病棟と手術室の看護師)医師との面会はなし。

2009/11/11 手術 朝の回診時に点滴をされる。

2009/11/13 退院 (前日退院は血尿があったので無理だった)朝の回診時に「退院していいですよ」で医師とはそれだけ。薬も何もなし。


2009/12/1 受診。以後、通院で経過を見て行くと言われた。痛みを訴えたら、セフゾンを処方される。


2010/1/7 出血を確認。病院の外来受付時間(午前11時)を過ぎてたので、電話で相談する。

看護師がでて、様子をみろとのこと。がまんした。


2010/2/2 受診。膀胱鏡検査。中が荒れてて、カリフラワーがもこもこした状態だった。再発?

再手術となる。

2010/2/19 CT検査


2010/2/26 入院(相変わらず、医師とは会えない)

2010/3/1 手術(朝から点滴、でも手術室に呼ばれたのは午後5時)

2010/3/2 退院


前回の手術時より痛みが少なかった。


2010/3/18 受診。再発ではなかったと言われた。次の検診は6月24日となる。


以上。


2回の手術をとりあえず体験しました。

痛みという痛みは、今はありません。ただ、違和感は感じます。うまく言えないのですが。

それから、足のむくみはきになりますね。トイレが近いとか、残尿感とか、そういうのは、やはりあります。


そういうところです。


次、手術の時の詳細を、薬なども含め、書きますね。


長々、読んで下さった方、ありがとうございます!!