夢は 実り難く
敵は 数多(あまた)なりとも
胸に 悲しみを秘めて
我は 歩み続けん……
明後日のライブで歌おうと思っている曲、ミュージカル『ラ・マンチャの男』の「見果てぬ夢」からの一節。
……生きるということは、こんなにも苦しいものかと。
実は今朝も、そんなことを考えていました。
その、僕の話は、今日の記事の主題から逸れるので割愛しますが。
夢に溢れ、ただそれだけを想っていれば生きていられた若い頃は、この歌の歌詞の意味がわかりませんでした。
でも、ようやく、その気持ちを理解できるようになった。
人は、誰にも語れない、たとえ語ったとしても、どうにもならない痛みや悲しみを背負いながら、それでも夢は果てることなく、そこに向かって歩き続けるのだ。
『ラ・マンチャの男』もまた、『エリザベート』と同じように、劇中劇としてその物語が繰り広げられてゆきます。
前回記事でも、ちょびっとだけ触れましたが。
この「劇中劇」という物語展開こそが、『ラ・マンチャの男』にしても『エリザベート』にしても、そのテーマをさらに深いものにしています。
(『ラ・マンチャの男』についても、いずれ、僕なり作品解釈を書いてみたいと思っています。)
前回書いた通り。
ルキーニは、エリザベートの人生を「劇中劇」として上演し、観劇することで、自らの信念を変えるのです。
ただし。
自ら創り上げてしまった劇中劇の筋書きは、もはや変えることができない。
エリザベートの物語に触発され、自分の人生を愛したいと改心したルキーニに待っていたものは、苦痛をもってその歓びを実感するという、なんとも悲劇的なハッピーエンド……。
『エリザベート』の中では、主人公が「殺される」という結末を、観客も、登場人物も、そこにいる全ての人たちが最初から共有した上で、物語が進んでいきます。
しかし、そこに登壇する登場人物たちは。
物語に没入するあまり、これが劇中劇であることをすっかり忘れています。
たとえあらかじめ筋書きを知っている劇中劇であるはずなのに、その苦難の渦にあっさりと飲み込まれ、舞台の上で、本気で悩み苦しむ。
人生という舞台の、その苦難の渦は、それほどまでに、恐ろしい力で人間を飲み込もうとしてきます。
そんな中、シシイ(エリザベート)は。
最後には渦に飲み込まれることなく、「私だけ」の人生を手にします。
実は、彼女には、その人生を「劇中劇」として見続け、渦に飲み込まれることなくハッピーエンド(肉体的には滅びますが)を迎えることができた理由があります。
「死」という、本来は自分の人生の一部であるものに、別の人物(トート)という人格を与え、分離させることで。
その人生を客観的に見る、もう一つの視点が与えられるのです。
そもそも「死」(トート)は「自分自身」なわけですから(このあたり、『レ・ミゼラブル』での、バルジャンから分離したもう一人の人格・ジャベールの描写と重なりますね)、トートという登場人物からエリザベートの人生を観察させるということはつまり、彼女が自分の人生を「俯瞰する」ためのもう一つの視点を獲得したということになります。
彼女は、この「もう一つの(人生を俯瞰した)視点」によって、最後までなんとか渦に飲み込まれずに、その人生を愛し続けることができたのです。
劇中劇のスタイル然り。
ルキーニという狂言回しの存在然り。
「死」に一人の人格を与え、自分の人生(シシイ)をもう一人の自分(トート)が見ているという劇構造然り。
『エリザベート』という作品は、常に、第三者の視点で人生を俯瞰する形になっています。
この「第三者の視点を持つ」という劇構造は、『エリザベート』が伝えたいテーマの上で、非常に重要な意味を持っています。
彼女の最後の歌の歌詞……
泣いた 笑った 挫け 求めた
虚しい戦い 敗れた日もある
この詞をみると、天に召されようとしている彼女自身が、その一生を、まるで物語のように客観的に眺めている言葉にも感じます。
しかし、それでもなお。
様々な苦難に飲み込まれないよう、必死に踏ん張ってきたエリザベートは。
ルドルフの葬儀の場で、ついに、その渦の中に飲み込まれそうになってしまいます。
「私を死なせて……」
このとき彼女は。
第一幕中盤の歌「私だけに」を歌い上げた時の誓いを、忘れかけていたことでしょう。
「私の生命は、私だけのもの。
なにものにも飲み込まれることは、しない!!」
そう誓った彼女も。
あまりの苦難に飲み込まれかけ。
その人生を愛することを放棄しようとしてしまいます。
しかし、もう一人の自分(トート)は、彼女を突き放す。
「まだ私を愛してはいない」
つまり、トートは彼女を、その苦難の渦の中から救い出し、もう一度「劇中劇の観客席」へと引き戻すのです。
それは、彼女自身が、最後の力を振り絞って自分を保ち、「飲み込まれること」から逃れようとしている姿。
「私だけに」の歌詞には、こんなことが書かれています。
「細いロープを昇って、世界を見下ろすの」
「私が命委ねるのは、私だけ」
眼下には、渦巻く人生の苦難があるかもしれない。
それは常に、自分を飲み込もうとしている。
けれど私は、それがたとえ細いロープであったとしても、高みに昇り。
飲み込まれることなく、それを俯瞰する。
それこそが、私が私の人生を愛する方法。
なにものにも飲み込ませない。
「世界を見下ろす」という言葉は、彼女が「偉くなって世界を支配する」という意味ではありません。
人生の渦に飲み込まれそうになった時こそ、高みに昇って、自分の人生を俯瞰することで。
自分の人生を、きちんと自分自身の手で支配するのだ。
そして。
ラストシーンでも繰り返される「私が命委ねるのは、私だけ」という歌詞。
そこでは、トートとのデュエットになっているわけですけれど。
(トートは「お前は、俺だけに命委ねる」と歌っています。)
トートと愛しあいながら、なぜ「私だけ」と歌うのか、ということに、疑問を持たれた方もいらしたのではないでしょうか??
これ、言葉だけ読んでみると。
なんだか「結局、トートの一方的な片思いかぃ!!」とツッコミを入れたくなるような歌詞なんですよね。
けれど、ここまで読んでくださった方には、もうその意味がお分かりかと思います。
トートとシシイは、本来、同一人物です。
シシイの「私だけに」=「私の人生を愛する」というのは、「死」をも愛するという言葉にほかなりません。
人生の荒波という渦に飲み込まれそうになる自分(現実世界の、シシイ)と。
その人生を客観視し、渦に飲み込まれないように見守ってきた自分(トート)。
その二つの「自分」が、最後に「統合」される瞬間。
それが「私(お前)は命委ねる、この私(俺)に」という歌詞の、本当の意味です。
辛い出来事は、誰にだってあります。
その時に、苦難の渦に自分の人生を落とし込み、コントロールを失ってしまったら。
誰か(環境)に支配され、ただ苦しんでしまうのなら。
その先は、自分の人生を愛せなくなる。
そこから生み出されるのは、ルキーニの人生です。
しかし、自分の中にもう一つの視点を持って。
飲み込まれそうになる自分を、しっかりと支えてあげることができたなら。
きっと、愛に溢れた「私だけ」の人生が実現する。
今朝。
僕は、自分をその渦から救い出そうと、あらためて、僕は『エリザベート』の物語や『ラ・マンチャの男』の歌を思い出していました。
だからと言って、いきなり笑顔になるわけではないけれど、それでいいんだと思う。
少なくとも、シシイや、この物語を生み出した作家、作曲家たちもまた、同じように自分の人生と向き合ってきたのでしょう。
みんな、苦しみながら、どうやったら自分を愛せるのかと模索し続けてきた。
だからこそ、この素晴らしい作品がこの世に誕生したのです。
苦悩を知らなければ、素晴らしい作品が生み出されることはありません。
夢は 実り難く
敵は 数多(あまた)なりとも
胸に 悲しみを秘めて
我は 歩み続けん……
作家も、作曲家も、その苦しみを知らなければ、「見果てぬ夢」の歌詞が書かれることはなかったでしょう。
自分は、一人じゃない。
そう思うだけで、少しだけ、救われた気がしました。
ピーター・オトゥール、ソフィア・ローレンが出演していた映画版「ラ・マンチャの男」。
学生時代に初めて観た時には、さっぱり意味がわかりませんでした(笑)
※チケット完売いたしました!!
◆日時:7/28(日)18時スタート
◆会場:SHINOBY'S BAR 銀座
(東京メトロ日比谷線銀座駅・東銀座駅より徒歩3分)
◆チケット:3,000円
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