あなたは『エリザベート』の物語を初めてご覧になった時、何を感じましたか??
自分の人生を受け入れ、本当の「自立」を手にすることの力強さ??
やがて訪れる「死」の存在を知りながら、その「生」を懸命に燃やしていくことの美しさ??
ルキーニもまた、この物語を初めてご覧になった皆さんと同じ感想を持ったことでしょう。
なぜなら。
昨日の記事でお話しした通り、彼も観客のみなさんと同じく、その物語を「初めて」目撃するのですから。
『エリザベート』が開幕した、ある日のこと。
どこかの「会社の社長」と名乗る方が、演出の小池修一郎さんを訪ねてきて、こう言い残して帰ったのだとか。
「実は、私は自殺しようと思っていた。
けれど今日、この舞台を見て、それを思いとどまることにした。
その感謝を伝えたくて、それを演出したあなたを訪ねた。」
以前もブログの中でご紹介した、このエピソード。
それを小池修一郎さんの口から直接お聞きした時、心からこの作品の素晴らしさを実感しました。
『エリザベート』をご覧になって、もう少しでも自分の人生を愛して、生きる勇気を持ってみようと感じた方は多いと思う。
これこそが、作品の根幹たるテーマであり。
ルキーニもまた、劇の最後には同じ思いだったんじゃないかと思います。
自殺を考えていたが、思いとどまる……。
どんなに努力しても、報われない人生。
そんな自分の人生を愛せず、それを放棄しようとしていた。
自分の人生に「愛」を感じることができなかった。
自分の人生に、愛などなかった。
……でも、そうではなかったんだ。
自分の人生を愛することができるのは、他でもない「私だけ」なのだ。
それなら、もう一度。
私自身が自分の力で、自分の意思で、その人生を愛してみよう。
「『ウン・グランデ・アモーレ』(偉大なる愛)など、幻だ!!」
ルキーニは冒頭、そんな皮肉を込めて。
「アラマローラ!!(くたばれ!!)」という言葉とともに、イタリア語で吐き捨てます。
(この二つの言葉が同じイタリア語で書かれているのは、この理由です。
ルキーニは、悪態を吐く時にイタリア語を用います。
つまり、冒頭の「ウン・グランデ・アモーレ」をイタリア語にすることで、それが悪態(皮肉・揶揄)であることを示唆しています。)
そして、この時の彼は、まさに上に書いたような「自殺」の心境にあります。
人生とは、どんなに努力しても報われず、そこに愛などない、と。
実は、ルキーニという男の実際の過去を紐解いてみると、それがよくわかります。
物語ラストの「偉そうなやつなら誰でも良かった」というセリフは、実際にルイジ・ルキーニが自供した言葉です。
これほどまでに、厭世的(人生には生きる価値がないという消極的な考え)な理由があるでしょうか??
同じ暗殺計画でも、ハンガリー革命家のそれとは、大きく違う。
ただの自殺行為です。
彼が、自分の人生を愛していなかったと感じさせる事実は、他にもあります。
Wikipediaによると、
「生後間もなくシングルマザーだった実母に養育を放棄され、幼少時代をパリの孤児院と里親の家で過ごす。
9歳から鉄道員として働き始め、10代の頃からすでにヨーロッパ各地で活動していた。
幼少の頃から優秀だったルケーニ(ルキーニ)は、やがてイタリア軍に徴兵されると有能な兵士になり、何度も表彰されたが給料が不満で除隊した。
除隊後、スイスに移住し、無政府主義に傾倒した。」
これが、彼の人生です。
冒頭の「ウン・グランデ・アモーレ」という言葉の裏には。
「愛すべき人生??
そんなものなんてあるもんか。
人生など、愛するに値しないものだ!!」
という、彼の皮肉に満ちた心の叫びが隠されているのです。
しかし彼は。
物語を追っていくうちに、もしかしたら本当に「愛」はあるのではないかと感じ始める。
幾多の苦難に直面しながら、自分の人生を必死に愛そうとした、一人の女性の物語。
しかし、その愛は。
人生の隙間から、涙のようにポロポロとこぼれてしまう。
それでも彼女は、必死にその運命を愛そうとするけれど。
コートダジュールの入江のほとり、彼女は、夫ともすれ違ってしまう……(「夜のボート」)。
コートダジュール。
ルイジ・ルキーニという男は、
「貧しく不幸な育ち故に、仕事もせずに国民の血税で豪奢に暮らす、権力者である王侯を激しく憎悪し」たために、王侯暗殺を企てたと自供しています。
(Wikipediaより)
彼が劇のオープニングで抱いている感情。
それは「憎悪」なのです。
しかし。
月の輝く夜の海で、その場面を紹介するルキーニの姿からは、もはや。
その、皮肉と憎悪が渦巻く乱暴な様子は、消え失せています。
ここで歌う、第二幕オープニングの「キッチュ」のリプライズは、切なく、哀しげなアレンジになっています。
攻撃的なロック・ナンバーだったはずのこの曲が、今や、エリザベート皇后への同情を感じさせるような哀しい旋律で、そっと寄り添うように奏でられる。
ルキーニの心情は、「憎悪」から「愛」へと、大きく変化しているのです。
彼は、エリザベートの物語を追いかけていくうちに、人生の愛を必死で掴もうとすることの力強さ、美しさを知る。
そして最後には。
この物語に自ら参加することを選択する。
かつて、ルキーニという男は。
人生に価値などないと思っていた。
「こんな世の中なら、死んだほうがマシだ」と考えていた。
命の尊さを知りもせず。
何ら「痛み」を感じることもなく、やすやすと他人の命を奪った。
しかし、いま。
人生とは、生きるに値するものだと知った。
愛する価値のあるものだと知った。
どれほど苦しくても、その命を愛することは。
何ものにも代え難い、力強さと美しさがあるのだ、と。
彼は、この死霊たちの劇中劇の最後に、その罪を償いたかったのかもしれない。
尊く、価値のある「人生」を奪ったことへの、罪。
しかし、すでに自分が起こしてしまった「暗殺」の事実は消すことができない……。
それならば、せめてもう一度。
今度は、「人生とは、愛する価値のあるものだ」という思いの中。
この死霊たちの劇に自分も参加することで、かつての現実を「痛み」とともに生きなおそう。
それが、もう人生を取り戻すことが叶わない、罪深い死者となった自分が今。
その「愛」を実感する、唯一の方法だから……。
『エリザベート』という作品の中で、シシィとトートの物語の傍らで語られる、もう一つの物語。
それは、ルイジ・ルキーニという男の「贖罪」のストーリー。
ラストシーン。
エリザベート皇后を刺す、ルキーニの胸のうちには。
ほとばしるような痛みと、引き裂かれるような罪の意識があった。
それは、同時に。
彼が「命の尊さ」を知ったことの証明。
その痛みこそ「人生とは、生きる価値のあるものだ」ということの実感なのだ。
スイス・レマン湖。
ここで、エリザベート皇后はその人生を終えるのです。
ウン・グランデ・アモーレ……
最後にもう一度、そう呟く彼の心には。
「人生への愛」が溢れていた。
ルキーニという男が、人生を愛し、昇天していくまでのストーリー。
それは「自殺を思いとどまり、もう一度、人生を愛する努力をする」という旅路と重なるのではないでしょうか。
決して、楽な道のりではないかもしれないけれど。
そこには確かに、その苦難を乗り越えるだけの価値があり、愛がある。
ルキーニはその罪を、黄泉の国で「痛みをもって償う」ことしかできなかったけれど。
命ある限り、人生を生き直して、その愛をもう一度確かめることはできるはず。
小池修一郎さんのもとを訪れた社長さんは。
『エリザベート』という作品をご覧になって、そんな思いを抱いてくれたのかもしれませんね。
※チケット完売いたしました!!
◆日時:7/28(日)18時スタート
◆会場:SHINOBY'S BAR 銀座
(東京メトロ日比谷線銀座駅・東銀座駅より徒歩3分)
◆チケット:3,000円
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◆年会費:1,000円(入会費 2,000円)
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