ミュージカル『エリザベート』。
昨日から、僕が出演していた2006年〜2012年のトートというキャラクター像(特に、僕が敬愛する山口祐一郎さん版をモデルケースに)のお話をしています。
昨日の記事は、こちら↓
マテ・カマラスさんがトートを演じる、オーストリア版のDVDを手に入れて気づいたこと。
それはまず、日本で僕が目にしているトートとはかなり違う。
石丸幹二さん版も、かなりハートの熱いイメージではありましたし、それぞれの俳優さんによって独自のトート像が作り上げられてはいたものの、それ以上に何か根本的に「違う」感触を抱いたんです。
それで、今になって改めて『エリザベート』の台本を見て分析してみると。
実は、日本と西洋の「演技法」「演劇論」の違いが、そこに映し出されていたんじゃないかと気づいたのです。
結論から言うと、オーストリア版でのトートの解釈は、いわゆる「現代リアリズム演劇」の手法で展開されています。
今日、西洋を中心とする演劇の世界では、こうした「現代リアリズム演劇」という考え方が主流で、これが世界標準の方法論ともなっています。
演技法・演劇論の専門的な話はここでは割愛しますが、僕は、そうした西洋発祥の「現代リアリズム演劇」の教育を受けてきましたし、僕が見てきた映画や演劇作品は、そのほとんどが、その手法で作られています。
一方、日本の演劇は、元は「神事」から発祥しています。
神主さんの「お祓い」に代表されるような、「ある一定の、同じ『しぐさ』をすることで、神を降ろす」というのが、日本の演劇のルーツ。
だから、歌舞伎などを見ればお分かりになるように、日本の演劇には決まった「型」がありました。
これが、いまだに日本の演劇が西洋や世界標準からやや外れた「型」寄りの演劇スタイルであることの理由です。
どうやら、僕が感じていた「日本版トートの解釈への疑問」は、自分が慣れ親しんできた西洋発祥の「現代リアリズム演劇」の考え方では説明がつかないというのが、その答えだったんじゃないかと思うんです。
「リアリズム演劇」というくらいですから、その方法は、人間の心の動きをリアルに辿った役作りが行われます。
観客は、キャラクターの内面的なストーリーにフォーカスし、それを追い、心を動かすのです。
ところが、僕が見ていた日本のトートは、どうにも内面のストーリーがつかめない。
でも、なんかめちゃくちゃ魅力的で、パワーがあって、神がかり的。
その理由はおそらく、日本で発祥し育ってきた(歌舞伎に代表されるような)演劇スタイルを軸に形作られていたからなんじゃないか。
……そう思ってみたら、なんだかその凄さの本質が見えてきた気がしました。
オリジナル版の解釈に縛られず、ご自身のトート像を完成させている山口祐一郎さんの「神をも降ろす」ほどの凄さ、創造力。
その所作や声には、ドラマツルギーやキャラクターの内面的な整合性をも凌駕する、イタコ的な凄みがありました。
そして、そうした日本的な演劇スタイルで、人間離れした「クールなトート像」を宝塚版から演出し創り上げてきた、演出家・小池修一郎さんの発想力。
(ちなみに、トートダンサーや、ハンガリー革命家という役も、小池修一郎さんオリジナルのアイデアで、オーストリア版には登場しません。)
つまり、僕が見て、出演していた『エリザベート』は、その本質的な意味においても「日本オリジナル版」と言えるものだったのでしょう。
……僕は通常、自分の好みでもあり、その教育を受けてきた「現代リアリズム演劇」の側面から台本を読み解くのですが。
実際、その手法で改めて『エリザベート』の台本を読み返してみると、やはりトートにもリアルで激しい "葛藤" が描かれています。
(劇作家は、リアリズム演劇の手法に則って台本を書いていると思われますから。)
台本に書かれている彼は、決してクールに決めた青い血の男ではなく、たぎるような願望と、そこに到達できない内面的な葛藤に悩む、あくまでも「人間」としての人格を持ったキャラクターなのです。
トートは、初めて人間を「愛する」という未知の経験の中で。
自分の心に従い、シシィに命を返してしまったことで、自身のアイデンティティー(死)が大きく揺らぎ。
「オレはいったい、何者なんだ……!?」
という思いに引き裂かれ、苦悩する男なのです。
……実はこれ、現代人の多くが陥る悩みの象徴でもあります。
今まで、何の迷いもなく、ただそれが「仕事だから」「やれと言われてるから」「義務だから」と言って続けてきたこと。
そこに理由も考えず、いつか誰かに言われたことにただ従い、レールの上に乗って生きてきた人が。
ある日、どうしようもなく自分の心が惹かれることに、従順に行動した時。
突然、自分自身が存在する意味を見失う。
自分が歩んできた人生に、疑いを感じ始める。
「自分はいったい何者なんだ??」
その疑問に気づいてしまった瞬間、言われるがまま、決められたままに歩いてきた当たり前の人生のレールが途端に信じられなくなる。
自分のアイデンティティーの土台が、大きく揺らぐ。
でも、その「気づき」は、本当の自分を思い出すためのとても重要なプロセスだと思います。
僕らの人生は、本質的に、そんな「自分探し」の旅です。
常識や世間の固定観念という軛(くびき)から解放され、本当の自分を再発見し、自分の存在意義や価値を手に入れること。
そして、その価値を人に愛してもらい、自分自身を愛すること。
しかし、それが満たされない葛藤に苦悩し。
そしてやがて、自分を受け入れ、他者を本当に愛することができる。
その時になって初めて、本当の幸せを手に入れる。
それが人生というものの本質であり。
演劇作品では、そうした心の旅が舞台上に描き出されているのです。
……日本版『エリザベート』は。
実はそもそも、そうした「リアリズム演劇」の考え方とは違う場所から派生していますよね。
より「ショー」の意味合いが強く、そこに大きな価値のある、華やかで煌びやかな「階段」のある、あの場所です。
(だから、演劇的に劣っている、という意味ではありませんよ。)
そして、日本の演劇のルーツは「神事」。
「型」をなぞることで、そこに神が宿る。
つまり。
トートというキャラクターや『エリザベート』という台本を。
ロシアやイギリスで発祥し、西洋で開花したような「現代リアリズム演劇」的な解釈ではなく、日本発祥の「型」という演劇手法で料理した、小池修一郎さん版の演出と、それを見事に表現した俳優さん達にこそ、新しい価値が宿り、多くの日本人が心を動かされたということだと感じています。
僕も、もちろんその一人です。
そして、そこに神は降りていたのです。
だからこそ、日本で誕生したトートの内面的な動きは「人間」的ではなく、揺るぎない自信に満ちた「神」的存在であったのかもしれませんね。
日本で誕生したトートは、やや乱暴に表現すれば「歌舞伎的」で。
それは、我が国の演劇のルーツをしっかりと受け継いだ、純日本的なキャラクターだったと言えるでしょう。
山口祐一郎さんのトート。
あの圧倒的で神がかり的な存在感だけで、大きな価値があった。
また見たいなぁ。
この役は、現在は井上芳雄さんらが演じられています。
(僕も数年前に拝見しました。)
今回は、古川雄大さんも演じられているとのこと。
ご覧になった方から伝わってくるお話では、今のトート像は、より「人間らしく」なっていると伺っています。
もしかすると、俳優が変わり、リアリズム演劇的な解釈へと変わっているのではないかと思いながらそのお話を聞いていましたが、残念ながら今季は、僕の鑑賞予定はありません。
このブログでは、僕が勝手に『エリザベート』を掘り返しています。
もしかすると、今上演されているものとの諸々の齟齬があるかもしれませんが……。
機会があればぜひ、ご覧になった方からのご感想を詳しくお聞きしたり、いろいろ『エリザベート』談義に花を咲かせたいと思っています。
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