暁烏 敏(あけがらす はや)は、彼の著書『更生の前夜』の中の、「蘇生の悩み」の項で言う;(再掲)
1. 釈尊が2500年前に生まれようが、3000年前に生まれようが、そんなことはわたしの問題ではない。わたしは現に自分の上に生きておられる釈尊を見れば、それでよいのである。
2. 阿弥陀如来がチベットの神話であるとか、釈尊の理想に過ぎないなどということも、わたしにはどうでもいいことである。わたしは現に自己の上に生きておられる阿弥陀如来に逢えば、それでいいのである。
3. 大乗仏教が非仏説であろうがなかろうが、原始仏教が小乗であろうがなかろうが、そんな問題はわたしの問題ではない。わたしは現に自己の上に生きているブッダの知恵を体得し、古い経典の上に新しい自己を見出せば、それでいいのである。
4. オイケンの説、ベルグソンの説、メーテルリングの説、バーナード・ショウの説、などなどを研究するのは、わたしの問題ではない。わたしは、これらの説の上に新しい自分を発見すればいいのである。
5. わたしの問題は常に現在である。生きているのである。わたしのこの現在の一念の主観を離れた問題は、空虚であり、概念である。わたしは、全生活に没頭して、すべての上に自己を発見していくところに、生存の意義があるのである。
・・・・・・以上、必ずしも原文のままではありません。