人々は家に、イエスは山に | 太陽の船に乗る

太陽の船に乗る

ディオニュソスの白夜をゆく

 

 

かくして、人はそれぞれ自分の家に帰った。

しかし、イエスはオリブの山に行かれた。

  (『ヨハネ福音書』7の53〜8の1)

 

 人はみんな、その帰るべき所へ帰って行った。ただ、各自は各々自分の家に。イエスはひとりオリブ山へ。

 人がみんな街の巷に気楽な休みを求めている間に、イエスだけは夜な夜な山の上で、直ちに天からの智慧と力の最も豊かな供給に預かっていたのであった。

 

 

 イエスの偉大なる外的生活は、一つにこの深き内的生活の外への現れに他ならなかった。

 

 

 われらもまた、われらの山を要する。世の人をしてその家に行かせればいい。しかし、われらは山に登ろうではないか。

 

 

(以上、『藤井武全集』第10巻「短文:イエス」より。現代文に修正。)

 

 

 

ここ、狭い書斎の片隅で、わたしはまたしても病床に臥している。このような度々のわたしの病気は、自分の不注意によるものだろうか。おそらくはそうなのだろう。しかし、わたしとしては、最大の原因はそこにあるのではないと思う。わたしの神様が何らかの理由から、わたしの肉体に目をつむられたのである。・・・・神が臥せと命じられたので、わたしの身は臥した。神が「血よ出なさい」言われたので、わたしの胃は出血した。神が打たれたので、わたしは悶えた。それだけのことである。わたしは、そう信じる。それより、他の仔細を知らない。

 

 

したがって、わたしは自分の病気の予後のことを考えない。医学的な見地に立てば、わたしの病気にも根拠ある経過を予測できるのであろう。しかし、わたしはそれを知ろうと思わない。わたしの願いは、ただ主の導いてくださる所へ従順に従って行くことができるようにと、ただそれだけである。それがどこであれ、わたしは黙々として付いて行きたい。一切を彼にお任せして。自分からは何の予想をも持たずに。今日主が置いてくださるところに、今日わたしはありたい。・・・・わたしとしては、明日以後のことを、あれこれ考える必要は少しもない。

 

(以上、『藤井武全集』第10巻「友情物語」p.236〜7より。現代文に修正。)

 

 

 

 昨日、午前8時より午後5時までの大腸検査の、準備と検体ほかの作業のすべてが終わりました。区の健康診断による、「細密検査を要する」との指示に基づくものでした。今日も、まだくたくたです。