わたしの敬愛する藤井 武の妻は、1922年10月1日の夕べに、天に召されました。藤井さんはそれ以後、10月1日を「私の日」と呼び、自分のことを記憶してくれる人は、10月1日に自分のことを思い出してくれるように言いました。
藤井さんはその時の心境を、
ああ、我が妻はついに逝いた。
私は正直に告白する、私の悲しみは実に無限であることを。
これほどの大きな悲しみは、私の薄信によるのであるか。あるいはそうかもしれない。しかし、仕方がない。事実である。(*原文を少し現代的に修正)
と、「夕べに我が妻は死ねり」の中で書き記されている。
今日は10月30日、10月1日よりはや1ヶ月が過ぎ去るが、藤井さんのそのとき詠まれた詩を開き、読んでみたいと思います。
『羔(こひつじ)の婚姻』第1歌 :「コスモス」(上)*原文は少し現代文に修正した。
目もはゆるコスモス、菊、ダリヤ
くまどるは薄紫の桔梗(ききょう)、
めずらし、バラの小花(おばな)さえ添え、
きよき者の門出に栄(は)えあれと、
その顔おおいに胸飾りに
秋は自然の誇りをつくした。
ああかくて平和に、しかし声なく
臥すは誰か、いま私の前に、
否、むしろ私のふところに。
ここ武蔵野の大野(おおや)のほとり、
天を見放(みさ)くる私の書斎が
彼女のピスガの嶺となった。
(2000年前のパレスチナ。死海のやや上、北東に「ピスガ山」がある)
現実かこれは、また幻か。
どちらとも、ある言いようのない世界に
わたしは今おのれを見いだす。
祈りに疲れ果てた魂、
また何をか願おう、弱者がえらぶ
あの許されぬことのほかには。(*自分で自分の命を断つこと)
十字架ひとつ、さかずき一つ、
冠(かんむり)も一つに備えられながら、
うらむ、凱旋(がいさん)を共にできないことを。
(*天に召されて逝くことをことを、この世への勝利として、凱旋すると言った)
ふるき友あり、この朝きたって(*岩波文庫『福音書』の著者:塚本虎二氏のこと)
無言のまま私の手をとり
しっかりと握った、その手は熱かった。
花の香(か)ただよう床の上に
跪(ひざまず)いて友は口をひらく、
外には秋雨もしとしとと。
「おお父よ、じつに測り知られぬ
深きみこころ! わが友にとり
これはまたあまりに重い軛(くびき)!
かれを思ってわが胸いたむ、
しかしわれらの意思(おもい)ではなく
ただみこころを成らしめたまえ。
願う、選ばれた彼が奉仕を
完成させ、そしてかなうことなら
早く彼をも召してくださいますように。」
「アーメン」の言葉が、爆発的に私の口をついて出た、
闇にひらめく電光のように、
終わりの一語がわたしを貫いて。
むなしい逸(そ)れ矢の相継(あいつ)ぐなかに
ひとり的を射抜いた友の愛を
主よ、あなたはお忘れにならないでしょう。
九段の丘うえ十字の会堂(*葬儀は東京・九段坂教会で行われた)、
今日しも満つる不動の空気、
人の子の悲しみ、主にある愛。
静かなオルガンの音につつまれて
讃美はあがる、涙のなかより、
全会衆の祈りもひとつに。
過ぐる夏の夜その教壇より
「人生の厳粛み」を声たかく
叫んだのはまさに私であった。(*妻の死の1年前、藤井 武は九段坂教会で「人生の厳粛味」と題する講演を行った)
同じ壇(だん)の下にきょうは黙って
裂かれたわが骨、わが肉を前に、(*妻と死によって引き裂かれたこと)
「神を義とせよ」との勧めを聴く、(*この状況下においても、「神は間違っていない」ということ)
神を義と! ああその通りである、私のため
縄(*いのちずな)はトペテの谷に落ちても、(*地獄のように深い谷)
わたしは神を義とすべきである。
さらば私は血まみれのまま
受けよう、感謝して、すべての笞(しもと/むち)を、
讃(ほ)めたたえよう、聖名(みな)を、とこしえに。
こう思い定めたそのときに
わたしの霊は会堂を脱けて
かがやく栄光の国にあった。
・・・・・・・(<中>へつづきます)
*矢内原忠雄は藤井 武について、次のように述べている;
「知る人ぞ知る、藤井 武は大正、昭和のエレミヤであった。我らは彼の如くに預言者らしく生きまた死にたる人を多く知らない。・・・・日本は確信をもって彼を世界に誇ることが出来る。」と。