なぜ「認識行為」としての「哲学」をするのか | 太陽の船に乗る

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ディオニュソスの白夜をゆく

 なぜ、わたしは哲学的な行為をするのか、と自問自答してみる。

 

 まず、最初からわたしは、大学で行なっているような哲学に興味はない。哲学科で何度か聴講したことはあったが、その本臭い哲学に、ほとんど興味を感じさせられることはなかった。

 

 また、哲学に近い神学にも、わたしはほとんど興味がない。わたしの生の探求や霊的宇宙論が独断と偏見に陥らないよう警戒するためにだけ、それらに目を通すが、それ以上の関心は全くない。

 

 その理由は、わたしはそれらに、「創造的な世界を開示するもの」を全く感じなかったからである。それらの行為には、創造性が感じられない。

 

 わたしにとって哲学的行為は、何よりも人生の内的な限界と障害を克服していくものでなければならない。したがって、哲学はわたしにとって哲学ではなく、哲学的行為である。認識や説明、解説されてよくわかったでは、意味をなさない。人生の障害と限界を克服する道と順路とが、開示さて来なければならない。そういう意味で、わたしには哲学することは人生の癒しやヒーリングなどではなく、創造的行為である。

 

薔薇十字:創造的宇宙力の開花

 

 肉体の治療でも、わたしは若い頃、治療は体の病気が治ったことと勘違いしていたが、それは痛みを和らげただけ、あるいは障害が進むのを遅らせる行為なのだということを知った。肉体は物質なので已むを得ないが、人生は物質ではないので、そうであってはならない。したがって、病んだものとは別の実在が創造される行為が見出されなければならない。

 

 「創造的認識行為」としての哲学は、自らの認識行為を確固として信ずる者、分裂を知らぬ完き者によってのみなされ得る。したがって創造的哲学とは、独断的哲学であって批判的ないし懐疑的哲学ではない。全一的なものを示す哲学であって、分裂した哲学ではない。

 

 本来の独断的哲学とは、選ぶことを恐れなかった哲学、また自らが選んだものに意識を傾注することのできた哲学であろう。独断的哲学は、恐れずに敢行する哲学者にして成し得るものであり、それは創造しゆく哲学である。

 創造者は常に独断的であり、常に大胆に選び、選んだものを大胆に肯定して行く。

 

 哲学は、「生の婚姻の奥義」を追求する芸術である。このエロチカを欠いた哲学者たちは、大学で行われているようなアカデミックな形に一層近いものとなるが、彼らの哲学には創造的洞察がない。哲学は、「認識という婚姻の奥義」「認識によるマクロクスモスとの婚姻」を目指して邁進するものである。

 

 

マクロコスモスとの婚姻と、創造力のトライアングル

 

 

 哲学的認識において説得力を持つのは、「創造的直観」であって、推論的思惟の論証法ではない。哲学にあって真理は提示され、定式化されるのであって、論証され、根拠づけられるのではない。

 哲学の任務は、直観のロゴス化、直観の定式化とその総合である。