ちょっと小休止で

歯医者さんで耳にした話。


治療中、私が型取りをしてもらってる時に

入ってきた他の患者さん。



声の感じではおじいさんみたい。

義歯が欠けたそうです、と歯科助手さん。



歯医者さん「いつ頃、欠けました?」


おじいさん

「5月の5日。

    柏餅をね、食べてて欠けたの。

    おもちと一緒に飲んじゃった。」




へえ。大変そうだ。

でも、いつ欠けたかが覚えやすい。

お見事!!

他にも抜けた歯があるみたい。




歯医者さん「そちらはいつ頃ですか?」
 

おじいさん

「それはね、お正月。

     お雑煮のおもち食べたときに。

     お正月よ、お正月。」






ダメ。

笑ったらダメダメ。

って思いながらもツボで

ひとり、声を出さないで笑いましたー。




♪───O(≧∇≦)O────♪

 


まさかのおもち2連発!!

行事がらみで覚えやすくなってる。

何だろう、このおかしみ。



書くとそんなでもない?

あの歯医者さんの空間で、

笑ったらいけないと思うと

余計におかしかったー。




笑うって、いい。

おじいさんは何となく

優しそう、怒らなそうな声だったし

あんな場面で声を出して笑ったら

一皮むけるのかな?

 


でも、この話ではないけれど

自分の言動が笑いになることを

恥ずかしい、笑われた

じゃなくて、

楽しめるようにはなってきた。




最近の心屋界隈の

「チョーウケるんですけど」

とか「コント」というとらえ方も

いいなぁって思います。











    









昨日、トップシークレットを書いてみた。

私が経験した、暴力にまつわること。





読む人への迷惑、も少しよぎった。

暴力に関しては、経験者になったことで、

感覚が麻痺しているかもしれない。

これが「戦争」だったら、どうだろう?

戦争が必要、なんて書いてあったら

とっても嫌だ。

読みたくないな。




でも、読む読まないは選べることだから、

と工夫せずに書いてしまった。




不快だった方、ごめんなさい。

スルーをおすすめしてから、

空白を開けて書けばもっとよかった。




アメンバー記事のことも知っている。

でも、私がつらくてブログもやっていなくて

ヒントがほしくて検索した時期に

アメンバー記事まで手続きを踏んで

読む気力はなかった。

すぐ読める情報の中では、

暴力→離婚ばかり目につく。

私は、夫も自分も信じたかった。




そんな時期、

シークレットの内容は違えど、

尊敬するぐりちゃん

トップシークレット記事に

ずいぶん助けてもらった。




トップシークレットに対する姿勢が

素敵なんです。




隠すでもなく

ひけらかすでもなく

揺れ動いているところも

そのまま書かれていて。




ブログでのぞき見させてもらった

ぐりちゃんが勇気を出して

今へとつながっていく様子。

私の心の支えです。





「世界は優しい」から

誰かにしてもらったことは

その方本人でなくとも

他の誰かに回して

どんどん循環させてみたい。




人のことより

自分のことがまだまだです。




でも、匿名のブログという

安全地帯で書くことは

痛くもかゆくもないので

やってみました。




更新スピードをあげて

きのうの記事を埋没させてますm(._.)m

あれは、今でなくても何年後でも

必要な方に届くといいな。




大丈夫だから大丈夫!!

私もまだ途中だけれど、

だいぶマシになった。




これからもどんどん

こんなによくなった、

こんなに仕組みだった、

ってことが書けたらいいな。




もちろん自分のために。

それがたまたま何かの役に立つ可能性も

否定しないのです。

















雲ひとつないお天気の中、声に出してつぶやく。

お天気が素晴らしくて、どこか行きたいけど、これを試す1日にしてもいい。

損してもいい、だ。
 
下の子がまだ小さくてよかった。

真似されたら困るキケンな言葉。




私は殴ってもいい

私は殴られてもいい

私は暴力を受けてもいい

私は暴力をふるってもいい




「暴力はダメ」と思ったまんまで、言ってみる。

以前、仁さんのブログで暴力のことを読んだときには心屋の『言ってみるカウンセリング』のことをよく知らなかった。

今は一応知ってる。

思ってなくても言ってみるんだね。

実行あるのみ!!




感想。

一言でいうと、体が喜ぶ感じ。

脳のコリがほぐれるとでもいったらいいのか、

かすかにあった頭痛が和らぐよう気もした。

野性的な喜びを感じた。

昔、田んぼの中を素足で歩いたような、

何でもありな無敵な、

怒られる心配もしていなかった、

幼稚園の時ぐらいの感覚。

笑いがこみ上げるようでもある。

我ながら、想像もつかない感想だった。

言葉にすると長いけど、時間にしたら短くて、声に出してみた始めの方で浮かんだ感覚だった。




それから、もう一つ。

ずっとずっと他でもない私自身が夫に言葉の暴力をふるってたことが、言い訳のしようもないほどに、腑に落ちてきた。これも意外な展開。

夫のことは糾弾するくせに、私自身が夫に嫌なことを言うことに関しては、ずっと言い訳や正当化をしてきたんだ。

殴られるべくして殴られたんだ、と感じた。

語弊はあるけど、実際そう感じた。

あの体の痛みと同じかそれ以上に、日常にとけこむような手法で、私も夫を痛めつけていたのだと思う。

基本は親にも言わないけれど、以前に暴力のことが私の親にも伝わった時に、父が「自分は暴力はふるわないけど、手が出てしまう気持ちはわかる」と話していた。

その時は無条件に味方してほしくもあり、複雑だったけど、貴重な意見だった。

それに体の痛みに関しては、その都度やられた分はやり返してたから、まあいい、と感じた。

殴られたことは早くもオッケーになってきた。

殴られた怒りを自分でもそれと気づかぬままに、日頃から言葉や態度で夫にやり返していたから、こんなに早くオッケーになったのかもしれない。

オッケーになったのが早すぎるし気のせいかもしれないけど、今はこんな感じ。




殴った自分に関してはどうだろうか?

この点はあまり心の揺れがない。

特に感慨もなくオッケーが出せそう。

女性である自分が男性の夫にしたので、罪悪感はもともと薄かったのかもしれない。





もちろん暴力は嫌だ。

これはずっと変わらずあるし、そのまま持っていたい。

「言ってみる」ことで、嫌だ嫌だと思うあまりに起こってしまうらしいカラクリが本当だと信じられる気がした。

少なくとも、自分が思った以上に暴力のことで傷つき、気に病んでいたことには気づいた。

言うだけで、あんなに「喜び」に似た反応があるなんて、私はよほど強烈に暴力を忌み嫌っていたのだなとわかった。

緩む余地がたくさんたくさんあったということだから。

暴力を忌み嫌う→そもそものはじめに夫婦げんかに暴力を持ちこんだ夫を絶対絶対、許さない。

常に私の発する言葉、態度すべてに「絶対許さない」が溶け込んでいたと思う。

気がつくだけで変わっていくんだろうか?

そうだといい。

もう少し声に出すことを続けてみようと思う。