19世紀中頃から興隆したシオニズム運動により差別に苦しむ離散ユダヤ人の間ではパレスチナへの移民が増えていた。パレスチナ、それに脅威を感じていた。シオニストの青年たちが1929年08月15日に、イギリス委任統治領(الانتداب البريطاني على فلسطين/British Mandate for Palestine/המנדט הבריטי על פלשתינה א"י)パレスチナのエルサレムにある「嘆きの壁(הכותל המערבי/Wailing Wall/حائط البراق)」の前でイスラエル国歌を歌ったことにより、イスラム教徒の感情を刺戟し、ユダヤ教徒とイスラム教徒が衝突した。
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「嘆きの壁」は、ヘロデ大王時代のユダヤ教で最も神聖な建物エルサレム神殿外壁のうち、唯一現存する部分である。
それは、約1週間の間にヘブロン「ヘブロン虐殺(Hebron massacre)」やツファット「ツファット・ポグロム(Safed riots)」など、パレスチナ各地でアラブ人による一連のユダヤ人襲撃が起こり、パレスチナ全土に拡大していった。
これを「“wailing wall” riots 1929」「The Wailing Wall Incident 1929」と呼んでいる。
しかし、パレスチナ側から見れば、自分の国に、多くの外国からの移民が来るようになり、自分お国だと主張し、泣いて、知らない歌を国家だと歌えば、気味が悪くなるのは、当然である。
この事件で、133名のユダヤ人が殺害され、339名が負傷した。アラブ人にも110名の死者が出た。
しかし、そのほとんどは、イギリスの警察や軍によるものだった。
それをユダヤ人が、イスラム教徒が行ったとすることで、ユダヤ側は国家創設の足がかりとした。
イギリス側は、イギリスの警察や軍によるものの責任を回避した。
この事件を受けイギリスは2つの調査委員会を派遣した。