授業の内容は前半と後半に分かれている。前半では、メディアを取り巻く環境の変化と新聞の強み、そして報道のあり方について講座生を交えた授業を展開した。昔は人々が情報を得る手段が少なかったため、メディアの価値が高かったことを説明。現在では情報を得る手段が増えたどころか、自らも情報を発信できるようになった。そのことがメディアの価値を下げることにつながったと話す。ラジオが台頭した際、「新聞は終わり」だと囁かれたが、実際には終わらなかった。テレビが台頭した際も同様であった。しかし、インターネットが登場してからはどうだろうか。ラジオは音声メディアであり、テレビは映像メディアであるが、インターネットは新聞と同じ活字メディアである。ラジオやテレビが台頭しても新聞に大きな影響を与えなかったのは、メディアの性質が異なるからだ。 

 同じ活字でも、新聞には大きく二つの強みがある。記録性と一覧性だ。記録性は、いつに何が起きたのかが、きちんと記録されているということだ。インターネットは雑多な情報に紛れており、記録性を得ることは非常に難しい。一覧性は、自分の興味のないニュースにも目を通すことができるということだ。新聞を開くと数多くの見出しが飛び込んでくる。世の中の様々な出来事は相互に結びついているため、一つのニュースを理解するには、他のニュースも知る必要がある。例えば、待機児童の問題を考えると、少子化問題、保育所の数の問題、保育士の待遇の問題、超高齢化社会の問題、ジェンダー格差の問題などが密接につながっている。物事を理解にするには、多角的な視点に立つことが必要だ。

 

後半では、自分自身を紹介する記事を書く体験を行った。新聞には「顔」という、話題の人物を紹介するコラムがある。そのコラムに出る人物を自分自身に置き換えて書くというわけだ。「顔」の文章は「現在→過去→未来」で構成されているため、その構成に沿うように、最初は自分自身の現在と過去と未来について箇条書きでプロフィールシートを書く。その後、三人のグループを作り、プロフィールシートを基に五分間ずつ相互にインタビューした。そのインタビューをもとに、客観視して自分自身を紹介する文章を書いていく。最後には時間の関係上、講師の方が講座生の書いた記事のいくつかを講評し授業を終えた。

 

前半では、報道について詳しい説明を行っていたのがとても良かった。東池袋自動車暴走死傷事故を例に出し、容疑者と呼ばない理由を示した上で、今日の日本における「容疑者」のイメージの説明は非常に興味深い。また、時折講座生に意見を聞き、その意見を授業に交えるというのは、とても良い刺激となったように思われる。

 

 後半では、コラムの構成に則り、実際に文章を書き、講評をもらうという一連の流れが新聞記者としての仕事の体験になり、非常によかった。