続いて、もう1つ例示されているメリット
「裁判員の負担解消」について、検討してみたいと思います。
引用開始。
「裁判員は、重病の患者や親の葬式等やむを得ない事情がない限り、辞退することが認められないとされています。仕事が休める状況にない者や、悲惨な事件の内容や証拠写真を見聞きすることが精神的
につらい者にとっては、裁判員は非常に大きな負担となります。
事実、裁判員を務めたことでストレス障害となったという訴訟が起きています。また、公判中に提示された遺体の写真を見たことで気を失ってしまった裁判員がいたことが話題となりました。裁判員となることがなくなれば、国民がこういった負担から解消されるという主張ができます。」終わり。
選ばれた裁判員は、辞退の自由が制限されています。
(重病とか親の葬式を例示したやむを得ない事情って、結構厳しいなあというのが社会通念かと思います)
このため、裁判員に選出された場合、
結構な確率で、「悲惨な事件の内容や証拠写真」を見聞きすることになります。
裁判員裁判が適用される裁判は、以下の通りです。
ざっくり言えば、殺人などの結構ディープな事件が中心になっています。
引用開始。
「裁判員裁判は、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた場合等の刑事事件において、適用されています。代表的なものとしては、以下のようなものがあります。
・人を殺した場合(殺人)
・強盗が人にけがをさせ、あるいは死亡させてしまった場合(強盗致死傷)
・人にけがをさせ、死亡させてしまった場合(傷害致死)
・泥酔した状態で自動車を運転して人をひき、死亡させてしまった場合(危険運転致死)
・人の住む家に放火した場合(現住建造物等放火)
・身の代金を取る目的で人を誘拐した場合(身の代金目的誘拐)
・子供に食事を与えず放置したため死亡してしまった場合(保護責任者遺棄致死)
・財産上の利益を得る目的で覚せい剤を密輸入した場合(覚せい剤取締法違反)」終わり。
よって、例えば、
殺人現場の写真や血まみれ?の証拠物(衣服、凶器など)をはじめとして、
調書(警察等が作成する主に事実をまとめた書類)の内容も、
加害者が、どういう主観(怨恨とか)、どこの部位(心臓をねらってとか)をどういう風に刺したのか(まっすぐ突き刺すようにとか)など、通常生活している人にとっては見聞きすることがないものを審議している間や裁判において集中的にみなければならないわけです。
(審議する以上、一切みないで判断するという対応は難しいと思います)
とすると、解説で例示されているとおり、それが原因となって、
裁判中に気を失う者やストレス傷害になる者が現れることは当然想定されることと思います。
とはいえ、個々の裁判員の体調不良が、そのまま国家が戦前の陪審制度以来の大型な司法改革の成果を否定するほどのものといってよいのか、よく考えなければならない気がします。
裁判員の人が可哀想だから、という感情論ではなく、その先にあるものをつかんだ議論を展開することが求められているように感じます。
では、どう考えればよいのでしょうか。
例えば、一応法学部出身の私としては、国家の制度(裁判員制度)によって個人の自由な権利(殺人等の写真を見ない権利)を侵害していると評価することができないのかなあと考えることができるようにも思います。
(作家の佐藤優は、裁判員制度は憲法に基づかないで国民に義務を押しつけるものであり、許されないといった旨の発言をしています。もちろん、民主主義的色彩の薄い司法制度への国民の積極邸な関与が必要であるという視点から、許容されるべきという反論を展開することは、可能だと考えます。いずれにせよ、主張をサポートする根拠をサポートする論拠をどの程度コンパクトに、かつ充実させるかが大事なのはどの論題においても同じことだと思います。)
このように、日本国政府(国家)による国民への義務づけは、どこまで許容されるのか、という視点から議論を展開していくのも楽しそうです。(おそらく結構な割合のチームがこのあたりの議論をベースにして重要性を構築するような気がしています。)
この議論は、突き詰めていけば、肯定、否定のどちらもサポートする内容になるような気がしています。水掛け論になった際に、どのような方法により自分たちにとって有利な展開をするかを、あらかじめ準備していくことが必要になるのは言うまでもないことだと思います。
なんだか予言めいた内容をつづっていますが、まだ試合をみていない一ディベーターの私見ですので、そのあたりはご留意いただければと思います。以上、ご参考まで。