人生と創造の会オリノです。

 

今年も8月6日が巡ってきました。

73年前に二発の核兵器によって二つの都市が壊滅し、人間の大量殺戮が一瞬で行われた。

この歴史的事件に関して、そして核兵器について、さまざまな思い・意見・呼びかけ・議論があり、この時期の報道やネットで取り上げられている。

私個人も少年期にこの事件を知り、皆と同じような思いを持ってきた。

月日が過ぎるのは早く、今では齢50を過ぎてしまった。

この場を借りて核兵器に関して、私なりの考えを書かせていただく。

 

では核兵器とは何なのだろうか?

ウィキペディアで見たら次のようにある。

「核兵器は、核分裂の連鎖反応、または核融合反応で放出される膨大なエネルギーを利用して、爆風、熱放射や放射線効果などの作用を破壊に用いる兵器の総称。」

兵器とは機械的武器であり、物であり、道具のひとつである。

核分裂・核融合の物理法則を応用した道具である。

ただ、その威力・破壊力が桁違いに大きいことから化物・怪物・悪の権化のように思われてもいるが、正体はただの道具に過ぎない。

箸やスプーン、自転車や船、包丁やコンロ、スマホや電子レンジといった、身の回りに溢れている道具と同じである。

その用途が特殊であり、非日常的なために、そう思えないだけだ。

道具は、人間が獲得した真実・真理・知識を基盤とし、人間の欲求・目的を満たすために創られる。

つまり核分裂の知識を得た、もしくはその研究が始まった時点で核兵器の現実化は不可避だったのだ。

そして広島・長崎があったわけだが、その惨たらしい破壊の様相を知れば、誰でも怒りや悲しみ、そして無力感・やるせなさを覚えるだろう。

だが肝心なことは感情的になっていると見過ごしてしまう。

あの日、広島・長崎の残虐な事件は、核物理学と核兵器の仕業ではない。

人間の仕業であり、その野蛮さ・愚かさの証明である。

たしかに惨劇は核兵器の破壊力を悪用することで現実となったが、核兵器自体が意志を持って大量殺人をしたのではない。

 

核兵器の恐ろしさを理由に、人間の愚行の責任を転嫁してはならない。

何よりも警戒すべきは、地球人の野蛮さ・愚かさである。

創造の法則・霊の教えを学び、人間とは何かを知ろうとするものはとても少ない。

地球人の発達段階は、これからそれらを学ぶのだから仕方のないことだ。

核の問題も、進歩と賢明さを身に着けていくために必要な学びであり、課題である。

 

次回 核兵器は全廃できるか