人生と創造の会オリノです。

 

道具は単に道具として存在している。

そして道具には、人間がそれを何のために、どのように使用するか、またどのように管理・維持するかによって、まるで違う意味・効果をみせるという特性がある。

ただ道具があっても、人間に使われないのであれば、それはただの物である。

また、知識・技術の進歩に連れて、単機能から多機能へ、扱いの難しいものから容易なものへ、すぐ壊れるものから耐久性のあるものへ、重く大きいものから軽く小さいものへ、異なる道具を融合させて機械的道具へと進化・高度化していく。

より新しいものほどそうなっていき、古い道具は廃れ、姿を消していく。

 

地球人は常に他者より優位に立つため、自己の権勢の強化、争いに勝つために武器・兵器を発達させてきた。

新しい知識・技術は、まず初めに軍事に利用されてきた。

軍事技術の発達=文明の進歩だとか、戦争が人類と文明を進歩させたなどという堕落・倒錯した考えさえ平然と通用している。

核兵器が現れてから半世紀後、一時は冷戦の末期からソ連崩壊後に核軍縮の動きもあったが、依然として地球上には地球自体を何回も破壊できる量が存在し続けている。

また今世紀では、核保有国が攻撃に核を使用する危険、事故・誤りによる誤発射、そして新たにテロリストが入手する危険も現実味を帯びてきた。

地球人は自己破壊が可能なほどの道具を手に入れたが、それに比して意識的・霊的進歩は滞っている。

いまだに世界の覇権を争い、宗教の虜となり、生命と自然を軽視し、利己的、そして経済的利益でしか物事を見ない。

人生を他者との競争としか見ない者が、自分の持つ最強の武器を手放すはずがない。

そして自分は持っているが、他人が持とうとするのは妨害し、あるいは他者が既に持っているならば、それよりも多く持とうとするだろう。

そのような臆病な人間が核兵器を放棄・破棄・全廃する可能性は一つしかない。

簡単なことだ。

核兵器が時代遅れになる時だ。

より破壊的・効率的な兵器が登場した時である。

 

結論として、核兵器を廃絶することは不可能である。

なにより、私たちは核兵器の廃絶を願っているのではない。

自己破壊を回避したいのである。

 

私たちが自己破壊を回避するためには、一人一人が賢明になり、賢明な指導者を選出するしかない。

人口過剰による害悪はより激しさを増すだろう。

気候変動、自然災害、食糧危機、水不足、テロリズム、戦争として繰り返し現れるだろう。

真実と理性を堅持し、それを拠り所として対処していかなくてはならない。

その時、神・宗教に頼ってはならない。

それは何の役にも立たないし、逆に害になる。

核兵器廃絶の夢を語るのも良いが、それは非現実的である。

夢物語のようだが、世界の人間の意識を高める方が現実的である。