人の心は繊細なもので
どんなに気が強くても
時にそれがもろくも崩れ去ることがある。

気が強いというのは
気が強いのであって
芯が強いのとは全く違う。

むき出しの神経のように
ちょっとしたことでも敏感になり
すぐに傷ついてしまう。

そのことをよく知っているから
傷つかないように
気力や精神力といった
鉄の鎧をまとい
芯が傷つかないように
守っているのである。

弱いところを守っていては
いつまでたっても強くはなれない、
強くなるためには
結果を否定するのではなく
あるがままにすべてを受け入れ
それを糧として自分自身を成長させることだ。

人間は傷ついて傷ついて、
叩かれて叩かれて、
強くなっていくものである。

頑張って一つ壁を乗り越えると
すぐまた次の壁がやって来る。
前の壁よりもっと高くそびえる壁が。

昔から自分の前に立ちはだかる壁は
壁ではなく大きな階段だと思っている。
よじ登るのが大変な大きな階段。

一段登って今まで自分がいた所を見てみると
少しだけ成長した自分が確認できる。

振り返るのはそのくらいにして
前を向いてみると今までより大きな壁がある。
努力してよじ登ってみるとまた大きな壁が。

壁の向こうには何があるか見えないけれど
階段の頂上には自分の夢がある。

一段また一段と登っていくことで
少しずつ成長しながら
夢に向かっていくのだと思っている。

№1を目指すかどうかはその人次第だが
№1を目指す人にとっては
夢の階段のどこかに№1があるのだろう。
そう頂上ではなく階段の途中のどこかに。

オリンピックは終わったが

いよいよスポーツの秋本番。
競技生活最後のシーズンを迎える人達は

夢を高く掲げ限界に挑戦し

完全燃焼してもらいたいものだ。

電車に乗っていると
新聞を読んでいる人を見かける。

朝の通勤時間帯、満員電車の中で
なんとも器用に新聞を折りたたみ、
手のひらサイズぐらいの新聞を
おもいっきり顔に近づけて読んでいる。

これがまたページをめくるというか
別の記事を読むときにうまく折り返す。
近くの人が読んでいると
ついついのぞき読みしてしまい、
その人が裏返すと、
まだ俺全部読んでねぇ、
などと思ったりする。

インテリサラリーマン風の人は日経、
くたびれたおっちゃん風の人はスポーツ紙。
そんな中、たまに英字新聞を読んでる人がいる。
こいつ何者なんだ。

商社マンか外資系金融機関の社員か、
はたまた帰国子女だったのか。
ついつい見てしまう。
英字新聞は読めないので
読んでる人を見てしまう。

なんて書いてあるのかなぁ、
わかってるんだろうなぁ、
とにかく英語が読める人、話せる人、
理解できる人はそれだけで凄いと思ってしまう。

洋楽聞いて歌詞カード見て
辞書で調べていた時代もあったが
いつになっても英語は苦手だ。
ダイハツミゼットという車がある。
今はミゼットⅡとなって四輪だが
初代は三輪車だった。

この三輪車、運転免許証が必要で
当然子供たちは運転することができない。

二輪車でもなく、四輪車でもないため
すごく中途半端な位置づけで
ナンバーも7が割り当てられている。

いまではバイクではなくトライクという三輪車がある。
昔、俺も乗っていたトライクは
バイクの後輪を外してシャフトを入れ、
両側にタイヤをつけた改造車で、
簡単に言うと後輪が2つついたBike、
車輪が3つだからTrike。

これ二輪じゃないからヘルメットかぶらなくてOKで、
四輪でもないからシートベルトもしなくてよい。

しかしこの法の盲点を突いたようなトライクも
近年規制が厳しくなったようだ。

ここで疑問に思う事が一つ、
電気自動車は免許が必要なのに
電動自転車はいらないのはなぜだ。

今はペダルが付いているが、
ペダルをこがなくても走るタイプが
出てきたら免許が必要になるのか。

電動車いすはどうだろう。
充電してモーターのみで自走する
車輪付きの乗り物は
どこからどこまで免許が必要なのだろう。
そのうち電動ベビーカーなども出てくるだろうし。

いつも法律は最新技術の後追いのような気がする。

口は何のためにあるのか?
あくびをするため?
話をするため?
では、目は、耳は、鼻は?

目は見るためにある。
耳は聞くためにある。
鼻は嗅ぐためにある。
口は味わうためにある。

元々目耳鼻口は感覚器官であり
ホモ・サピエンス・サピエンスとしての役割は
上述の通りであるがヒトは脳の発達とともに
話をすることができるようになってしまった。

それにより交尾以外の
コミュニケーション手段を得て
文化的な営みが可能となった。

その反面、口は災いのもとと言われるように
たった一言で長年の信頼関係が
もろくも崩れ去ることもある。
口の悪い人は耳鼻咽喉科に行っても
治らないので注意が必要である。
耳鼻咽喉科は耳、鼻、口などの
感覚器官を治療するとこだから。

目は?
目だけは眼科である。
なぜ目だけは別の専門医がいるのだろうか。
目は感覚器官の中でも特別なのだろう。
動物は目から大部分の情報を得ていて
それに基づき様々な判断をしている。

大きさ、形状、色。
見た目、外見、第一印象。
人や物を認識する時、
視覚情報が大きなウェートを占めている。

大きな物、小さな物。
高い物、低い物。
綺麗な物、汚い物。

見ることと見えることは全然違う。
注意して見ているものと
何気なく見えてるものでは
印象も認識も全く違うのである。

子供の頃より日記なんていうものを書いたことがなく
はたしてどのくらい続くか
わからないまま始めたのだが
毎日更新しようと決めたので
なんとかここまで続けてこれた。

ひとよりは少しは自己管理が
できると思っているので
決めたことなら続けられるのは当たり前である。

ところが毎日更新しようと思っていても
時々思わぬ邪魔が入る。
代表的なのは睡魔だ。
これにはまず勝てない。

とにかく気がつくと既に日付が変わり
もう取り返しがきかない。
そう思っていたのだが長いこと利用していると
いろいろと裏技があることに気づく。
23時59分更新なんてのは最たるものだ。

次にデータの消去。
文章を打ち込んでる途中に
間違ってブラウザの戻るボタンを押したり
確認するつもりが別のタグを押して
文章が全て消えてしまったこともある。

そして大人の事情。
なので更新漏れがないように
暇を見計らって更新するようにしている。

ということでしばらくは裏技で更新することになる。
国歌があり校歌があるように
大手には社歌がある企業が多い。

テレビCMをやっている会社は
コマーシャルの中で流され
知っている人も多いと思う。

有名なところでは日立製作所、
ハワイにある大きな木と
一緒に流れてるやつ。
東芝なんかも光ったり回ったりする歌。
ロート製薬も本社だか工場だかが
ズームアップしながら流れている。
ヤンマーディーゼルの
やん坊まー坊は誰でも知っている。

放送局もよく流れている。
放送開始前や終了後に
コールサインとともに流れてたりする。

そんな中、文化放送とテレビ朝日の歌は
耳になじんでわかりやすい曲だ。

しかしである、テレビ朝日の歌は
いったいどうなってしまったのか。
10チャンネルという一節があるのだ。

昨年7月アナログ放送が停波し、
完全デジタル化され
5チャンネルになってしまった。
歌詞の一部を変えたのか、
新たに社歌を作り直したのか。

どうでもよいことだが気になっている。

人は誰でも多かれ少なかれ
悩みを持っている。

プラス思考の人、マイナス思考の人、
おめでたい思考の人などいろいろいるが、
悩み事を大別すると
健康、家族、恋愛、仕事、勉強、人間関係、
そしてお金の問題。
こんなところでしょう。

俺のようなおめでたい思考の人間は
あまり深く悩んだりしない、
なぜなら、何とかして帳尻合わせるから。

自分の力でどうにもならないこと
例えば地球温暖化とか、景気の問題とか、
どうにもならないことは深く考えず、
与えられた環境の中で自分が進む道を探し始める。

どうすれば自分の思うような結果が出るのか、
そのためには何が必要なのか、
経験、知識、想像力、技術力、情報、人脈などを
フル活用して自分の取るべき行動を決めていく。

自分の知らないことは知ってる人に聞くし、
自分のできないことはできる人に頼むし、
苦境に立った時こそ自分の能力を
最大限に引き出し前へ進む。

100%の確信なんてそうそうあるものではなく、
99%大丈夫だと思っていても、
1%の不安があると、その1%で悩み始める。
そうすると頭の中がたった1%の不安でいっぱいになる。
だから不安だらけになり、迷い悩むのだと思っている。

迷ったり、悩んだ時は一抹の不安はあっても
何とかするという気持ちで取り組んでいる。
ただし過信は禁物で自分の能力を過信すると
無謀なことをしてしまう。

まずは己を知ること。

自分の置かれている状況を的確に判断し、
自分の能力を過信しないことである。

人の意見は参考程度に聞くが
それはその人の経験、知識、想像力、技術力、情報、人脈、
そして置かれている環境、性格、思考回路、精神力を基にした意見であるから
必ずしも自分に当てはまるわけではなく
あくまでも参考程度にとどめるべきである。

人の意見に耳を傾けることは非常に大事だが
鵜呑みにしてはいけないと言う事だ。

つまり膨大な情報の中から最善策を選択し、
最終判断を下すのは自分なのであるから、
全ての責任は自分に帰結する。

選択権と決定権があるからこそ自己責任がともなう。
決められたことをやって結果が出ず、
責任を負わされるというのは不条理で、
物事を決めた人間が責任を取るのが道理である。

自分が責任をとれる範囲+αぐらいの
ことしかしていないのであまり悩まない。
常にこの+αを広げるように心がけている。



髪の毛のことも悩んでいない、
どうにもならないから諦めている。
あの社長のしゃべり方好きではない。
よく年配の人が最近の若者は・・・
などと言っているのを耳にする。

時代とともに変るものと
時代が変わっても変わらないものがある。

先人たちから見れば
現代人はあり様は異質に見えるだろう。
現代人から見れば
未来の人々は異質に見えるはずだ。

時代が変わり
生活観が変わり
価値観も変わる。

今の若者の生き様は
今の若者の文化であり
それを自分の常識で見ては
いけないのだろう。

常識の枠からはみ出したところに進歩があり、
新たなものが創造されると思う。
社会秩序を逸したところは戒めるべきであるが
そうでない部分は新たな文化の発祥だと
温かく見守るのが大人の役目だと思う。

若者の悪いところを見るのではなく
良い部分を活かすことが成長につながるのだと思う。

僕の生まれ育ったところは十日市場という所で
横浜市緑区にありJR横浜線の駅があります。

僕の家は市営団地の中央部にあった
商店街の中にあり、酒屋をやっていました。

昭和30年代後半に建設され
8000世帯ぐらいの大規模団地でした。

小学校は7クラス、中学校は9クラスあり、
教室が足りずにプレバブの仮設教室で授業をしていました。

家業の酒屋は大繁盛していて商店街も活気があり、
まさに高度経済成長の恩恵を受けていました。

ところが父が亡くなり僕が中学校へ行くころ、
団地の周辺部に大手スーパーチェーンが出店し
商店街はみるみる寂れてしまいました。

高校生になると、お店は叔父に任せて
母と僕は市ヶ尾に引越ししました。

大学を卒業して現在のところに移り住んだのですが
場所はそれぞれ車で10分程度のところです。

その後、十日市場団地は建て替えが進み
現在では高層マンションが立ち並ぶ
新たな団地に変貌しました。

周辺道路は頻繁に通るのですが
なかなか中央部へ行く機会がなく、
数年前に久しぶりに行ってみました。

20店舗ほどあった商店街は見る影もなく
ほとんど取り壊され、
立ち退きを拒否している数店舗だけが
歯抜けの状態で残っていました。

立ち退いた両サイドは既になく
ポツンポツンと何店舗か残っている。
まさにゴーストタウンのような状態に
涙が出そうになりました。

自分が子供のころ過ごした家はなく
友達も既に引っ越していなくなり
生まれ変わった団地の中で
廃墟と化した一角を見て
世の中の無常を感じた出来事でした。