第2章第4節 1.韓国社会と文化の変化ー① | 目指せ!2025年中検準1級合格

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第2章第4節 社会と文化の変遷

日本統治下、西洋文化が入ってきて、朝鮮社会は素早い変化を遂げた。1920~1930年代、朝鮮の社会と文化が

どのような変化を遂げたか見ていく。

 

 

■変化した都市と、変化しない農村

 

日本の植民地統治期、朝鮮都市の面持ちに巨大な変化が発生した。発展して都市になったところは全部日向けの米や綿花を輸出するための港と交通のかなめとなった。建設工場と日本軍駐在の地方も都市となった。特に大田、清津、群山、興南など広い平原が都市となっていった。

左の図が示すのは1913年、朝鮮総督府に指定された府の都市である。(ここでは地図はありません)

府と制定された都市は新たに計画が進められ、道路を整備し、医療と衛生施設を拡張した。

もちろん、都市で生活する人はメリットもたくさんあった。しかしながら府の指定する標準は人口総数に基づいてはおらず、それは日本人がどれくらい居住しているかを標準に決定されていたのである。

しかし、農村はそれほどの変化はなかった。土地を持たない農民の生活はさらに厳しくなった。たとえば1930年、ある村は38戸あったがその中で自分の土地を持つ農民は一軒だけで、食べ物の心配をしないのはたったの3軒だけだった。多くの子どもは靴を履かず裸足でかけずりまわっていた。自分の土地がない農民は付近の工事現場、あるいは鉱山などへ出稼ぎにいくしかなかった。しかし、このような仕事も簡単に得られるものではなかった。農民は仕方なく故郷を離れ、都市へ出た。彼らは都市のまわり、あるいは河川などに掘っ立て小屋を建てて、なんとか生活を維持した。

 

■巨大な変化を遂げたソウル

 

都市の中でもっとも栄えたのはもちろんソウルである。

ソウルの人口は1920年から増え始めた。その理由は農民が大量に流入してきたことで、日本人の数も劇的に増えた。

ソウルはいたるところで新しい建物を建設し、人々は市の中心の各所に集まり繁華街商店街として発展した。右の写真は

当時の商業の中心の風景である。写真上に「本町」という商店街が見えますか。あの後ろ側は日本人が経営する西洋品百科商店で、西洋服の店とカメラ店などである。日本人商人はソウルで各種の商圏を握っていた。「本町」の向いは鐘路商人という韓国商人で、彼らはいつも日本人商人と熾烈な競争をしていた。

1903年、車は王室用品として初めて朝鮮に入ってきた。20世紀、20年代、車の数量が200台越えくらいまでに達したが、

個人は所有していなかった。飛ぶように速い貴重な車の運転手の月給がとても高く、第一位の結婚対象だった。

1928年営業タクシーは3年もたたないうちに800台まで増えた。

電車は人々が利用する最も多い大衆交通用具となった。ここから電車路線を2線に変更し、電車も100人以上の車両に変わっていった。1920年代、小型公共車が出始めた。これらの車の路線は電車が通っていないところまで延びた。価格はタクシーよりずいぶん安く、第二の交通手段とすぐになった。