戦国時代の日本に伝わった西洋文化のひとつに火縄銃があります。後年の幕末期に、白人たちは未開の野蛮人に西洋の技術を教えてやると上から目線で見下した物言いをしていましたが、よく考えてください。物づくりとは日本人の専売特許ですよ。日本とは職人の国です。白人の技術なんてあっという間に追いついて追い越してしまうのです。作れないのではなく、作る必要がなかったのです。日本には銃は必要なかったのです。

ところが時代の流れと、日本人本来の好奇心旺盛により銃を製造することになりました。

1543年、種子島に漂着したポルトガルの商船から、領主が火縄銃を買い、これを刀鍛冶の八坂金兵衛に渡し、コピー品の製造を命じました。分解して構造を理解し、部品を作り組み立てます。試行錯誤があり、金兵衛の娘「若狭」を異人に差し出したなどの伝説もありますが、刀鍛冶が見本1丁だけでほぼ自力で作ってしまうところに日本人の底力があります。完成品を10丁製造し、これを堺(大阪)の商人職人集が聞きつけ、あっという間に大量生産体制に入りました。

1549年、ザビエルが来日した際、自分が行った日本の先々全てにおいて火縄銃を目にしたため、本国(ローマ・ポルトガル・スペイン)に向かって「我々と同じ銃をたくさん装備していますので、日本を力ずくで占領することはできません」と連絡しています。

そして話はそれだけで終わりません。なんと改良に改良を重ね、西洋人よりも高性能の火縄銃を作ってしまいました。あまりの性能の良さに、西洋人が欲しがって逆輸入になったそうです。これ、いつの時代でも同じことが繰り返されています。自動車しかり、ウォークマンしかり、数え上げたらきりがありません。

八坂金兵衛の火縄銃製造開始から10数年で、ヨーロッパ全体を合わせた銃の保有数を、上回る製造保有国になったそうです。10万丁だかそれ以上だかと言われています。

 

戦国の世が終わり、徳川体制で日本が統一されることになります。ここで行った重要なことが「鎖国」です。異人は来るな、異人は出て行けということです。

ただし世界情勢の情報は必要なので、侵略の意思がないオランダとだけ交易は認めていました。

現在の学校では江戸時代のことをできるだけ悪く思うように教育しています。さすがにバレ始めているので、年表や文言の記憶だけをひたすら暗記するように誘導し、肝心のその中身を教えるようなことは決してしません。なぜか?それはそれだけ江戸時代が素晴らしかったからです。縄文時代に通じるものが再生できていたからです。

なぜ縄文時代を少し再生できたのか?それが「鎖国」です。

戦国期における西洋人は日本国内において悪いことばかりしていたからです。善いこともあったでしょうが、その目的はあくまでキリスト教国化です。最終的には本国から軍隊がやって来て侵略支配する意図があるからです。

これは秀吉の時代に、はっきりとわかったことです。スペインは侵略の意思がある。その頃、スペインの前線基地はフィリピンにありました。フィリピン総司令部から秀吉に「明(みん)」を一緒に攻めて分割しないかと打診がありました。秀吉は、明を占領した後は、必ず明とスペインの連合軍が日本に攻め入ることが容易に分かりました。

スペインの思い通りにさせないためには、先ず明を日本の支配下に置くことです。ここを間違える人が多い。あくまで明の独立を踏まえた上での支配下です。つまり言葉でいっても分からない連中であり、先見のメイなんて持ち合わせていない連中でもあります。だから実力行使で、結果が出てから独立させて手放すということです。そこがわからないのでいきなり攻め入ったから侵略だと大騒ぎするのです。

その後の歴史の結果を見れば明らかでしょう。中国は西欧諸国に虫食いのように割譲されています。このとき秀吉は、明がダメなら朝鮮だけでも押さえておけば日本の侵入を防げると考えていました。深謀遠慮(しんぼうえんりょ)(遠い将来のことを考えて今作戦を立てる)なんて説明しても理解できる朝鮮族ではありません。支那人もまたしかりです。

現在の学校では、ボケた極悪人の秀吉に敢然と立ち向かった朝鮮軍などと教えていますが、事実は異なります。まず秀吉はこの時も頭脳明晰でした。そして進軍する日本軍に対して朝鮮庶民たちは歓迎ムードで迎えていたということです。

反撃して来たのは、朝鮮の支配者層たちです。そこに明の応援軍が加わります。

日本の進撃に焦ったスペインのフィリピン基地では、フィリピン在住の日本人たちを強制収容しました。

ここまでの流れ、気が付きましたか?ロシア(ソ連)の南下政策の対応とまったく同じことが繰り返されています。日露戦争、第二次大戦。同じことの繰り返しです。アメリカが日系人を強制収容したことまで同じです。

朝鮮に入った日本軍はスイスイとソウルまで行ったそうです。朝鮮庶民たちも後に続いていたそうです。そして朝鮮と明の連合軍と戦闘になります。

結果として秀吉の死により、日本軍は停戦協定を結んで帰国することになります。

この撤収中の日本軍に、結んだばかりの協定を破りいきなり攻撃してきた卑怯者が、かの国で英雄とされている「李舜臣」です。こいつはこの時あえなく返り討ちに会っています。

さらに秀吉は、奴隷売買のことにも気付きました。火薬の取引とかで大名が日本人を売り飛ばしていたのです。これを仲介していたのが宣教師たちです。実際にインドのゴアで日本人がこき使われているのを天正少年使節の四人が目撃しています。

さらに民衆を誘導して寺社を破壊させています。これら悪事の数々をこれ以上見過ごすことができないために宣教師を追放しました。

徳川の世になり、正式に鎖国という政策を執りました。外国人の入国を封鎖したことにより、日本国内はどうなったか。もちろん国内での戦闘もなくなっています。

このことにより、日本人の中の縄文人遺伝子(DNA)が活性化したのです。

260年間で江戸文化が一気に花開きました。江戸庶民の様子は拙ブロブ記事「江戸庶民の姿」を参照してください。江戸文化は多岐にわたるため、全てを紹介しきれませんが主なところを記してみたいと思います。

まずは職人の技、工芸品です。瀬戸物、漆食器、和紙、千代紙、くし、かんざし、手ぬぐい、樽、桶、家具、陶器など、日用雑貨品がもう既に芸術的な完成品になっています。

これらの工芸品には大きな特徴が二つあります。ひとつは全て庶民のために作っているということです。外国のように王室だけというものではありません。もちろん日本にも大名献上用はあります。ですがこれらの工芸品はあくまで庶民用にあるということが大事なことです。同時代の外国の庶民が使っていた日用品は現在の日本と同様、美も質も劣る無味乾燥の粗悪品です。

江戸の日用品は、なぜ手ぬぐい1本、千代紙1枚にこんな手間暇をかけて作るのか、ということです。これは買い手の上限数が決まっていたことによります。今風に言うとマーケティングシェアとでもいうのでしょうか。つまり江戸では貿易をやっていませんので国内市場の上限が固定されています。買う客の人数が決まっているので、客の取り合いになるのです。お客が自分の商品を買ってくれるように各店や職人が努力して技を競い合っていたのです。だから素晴らしいものが生まれていったのです。現在は日本人のふりをした帰化人に富が集中するように、中小企業を潰して大型スーパーが市場を独占しています。

江戸は違います。日本人の町です。たとえ自分の商品が売れまくって独占気味になったとしても、商売敵を見捨てるようなことはしません。そこの店にもお金が落ちるようにお金の動きを変えました。これを「卸売り」とか「帳合」といいます。

例えばA社が販売する物を、直接お客に売るのではなく、間に商売敵の会社を入れてお金を落としていくシステムです。末端100円で売る場合、儲けはA社が100円一人占めではなく下記のようになります。

 

A社  → B社  → C社  →  お客    (物の流れ)

70円 ← 20円 ← 10円 ⇐ 100円 (売れたお金の配分)

 

この場合、B社とC社のことを帳合とか卸売りといいます。

現代ビジネスで外国人が日本に参入してきた際、ただの販売に何で間に何社も入っているのか理解できないそうです。そりゃそうです。外国人は自分さえよければ周りの人がどうなろうと構わないという生き方なのですから。

この帳合卸売り制度は今の日本にも残っています。これは江戸時代に始まった相互扶助の精神によるものなのです。

ちなみに千代紙とは、人形を作ったり、折り紙にしたり、包み紙や菓子敷きなどに使われていました。庶民の生活に彩りを添えていたのです。圧倒的なデザインと色彩、そしてその種類の豊富さに驚きかつ感動します。できればたくさん見てもらってこの感動を分かち合いたいのですが、全部は無理なので一部分を画像でお届けします。

次に建物の建具です。江戸の町は火事が多く、ほぼ毎日のように起きていたそうです。

何十年に1回は江戸の町ごと焼けてなくなるそうです。そのため、建具は庶民の長屋もお店も大名屋敷も全て同じ寸法なのです。違いは使用する材料によって高価になるだけです。

いざというときのために在庫保管しておくのです。そのため、火事で家がなくなっても、あっという間に家が立ち並ぶということになります。建具とは襖や障子、床板、屋根などの家の部品のことをいいます。

このように災害からの復興に強い日本人なのに、なぜ東北福島は未だに復興「がんばれ日本」なんてやっているのでしょうか。ここでは詳細説明は省きますが、ずっと復興やっていれば予算が付き、そこからずっとピンハネし続けられるからです。No!と言える日本人が一人でも多く増えてくれることを願っています。さて、アホは放っておいて次は貸本屋に行きましょう。グルメ本や温泉地ランキング、異性にもてるHowto本、小説から難しい本まで現在とほぼ変わりありません。中でも注目したいのは数学本です。まるでクイズを解くかのようにたくさんの人が読んでいたそうです。この頃、西洋の数学よりも先んじていた内容もあるそうです。日本が誇る数学者「関孝和」が生きていたのがこの時代です。

江戸の文化は多種多様であり、あまりにも面白く、際限なく楽しめます。その全部を紹介しきれませんが、この続きは次回とします。つづく