龍笛を15年近く習っている。
雅楽の楽器である。
寺の儀式で演奏することがあるのだ。
普通は、それだけ続けていれば上手くなる。
ところが、悲しいかな、いっこうに上達しない。
(ここで音をふくらませなくては)
そんな場面でも理想通りに息が入らない。
(細い息をいれながら、音の芯だけはのこして)
そういうフレーズでは息とともに芯もなくなる。
(稽古を続けていっても苦しいだけだもんな……)
以前よりも、気力が下がっているのを感じる。
現在の龍笛は、10年位前から使っている。
綺麗に仕上げられている。
先生が吹いたなら、格好よく鳴る。
善い楽器なのである。
(頑張るぞ!)
当初は確かにそう決意した。
毎週一回行われる稽古にも人一倍参加した。
ところが、今はこの様である。
使用中の龍笛は十年前と同じである。
吹いているうちに形が変るわけではない。
上手く吹けないのも同じである。
素晴らしい演奏が出来ていたわけではない。
だとすれば、気力低下の原因は自分に決まっている。
自分が変ってしまっただけのことである。
(情けなや~)
しかし、いつまでも思わしくない演奏なのである。
考えてみれば、気持ちが変化してもおかしくない。
同じ本を何度も読み返したとする。
初めに読んだときと、五回目に読んだときとは感想がことなってくるはずだ。
(もうわかっているよ)
おそらく、読み返す度にあきてくるはずだ。
(あれっ?)
もちろん、面白くなってくる可能性もある。
こちらは少数派に違いない。
さて、そこで考えてみる。
面白くなる人は、なにをしているのか。
おそらく、書かれていることの、より細部に関心を向けているのであろう。
一度目よりも、二度目、三度目と意識の及ぶ範囲を広げられたのである。
知識や経験を蓄えたのであろうか、
よい意味で自分を変えられたのだと想像できる。
書かれていることは同じ。
(やっぱりやるしかない)
技術を向上させるしかない。
楽しい気持ちで笛を吹き続けるには、それしかない。
(あぁ)
要するに、忍辱、精進、智慧が足りていないようである。
法然上人の伝記にしるされております。
『法然上人は、聖道門の諸宗の教えをよく理解されていたので、法相宗や三論宗の高徳たちは、おのおの上人がその宗派の教えを理解していることに感心し、天台宗や華厳宗のすぐれた学匠たちは、それぞれ上人の広い才知をほめた。上人はなお迷いの世界から離れる方法に思い悩み、身も心も落ち着かず、この次に生まれ変る時に、迷いの世界から離れるための大切な方法を見出すため、一切経を五回も読まれた』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所訳P77】
ありがとうございました。