毎週、雅楽の横笛の稽古に通っている。
寺の儀式などで演奏するためだ。
十五年近くになろうとしている。
習い始めの頃は、曲の旋律をひたすら歌うだけだった。
ほんとうは「だけだった」などと言ってはいけないのだが……。
実は、この歌がとても大事な練習だからである。
「プラ管を用意しなさい」
そうして、三ヶ月程経つと宮内庁楽部の先生から楽器を持つ許可をもらえる。
最初はプラ管=プラスチック管である。
もちろん、とても嬉しい。
だが、……。
しばらくの間は恥ずかしいくらい音が出せない。
息を吹き込んでも何故か風切り音ばかりなのである。
「そろそろ本管を持ってもいいぞ」
その後、二年程継続できれば再び大きな節目を迎える。
本管使用の許可が先生からいただけるのだ。
根性と気合いで恥ずかしさを乗り越えてきたことが報われる。
本管は職人さんが一つ一つ作成している。
竹と桜の皮などで出来ている。
従って時間がかかる。
もちろん費用もそれなりである。
私の給料一月分ではとても足りない。
「そうかんたんに買い換えられない」
だから可能な限り意匠のリクエストもしておいた。
注文をしてから一年半後、いよいよその日がきた。
届いた笛は予想以上に素敵だった。
以来、約十年、毎日大切に使っていた。
ところが昨年三月……。
「あれっ?」
息を入れたら音が鳴らなかった。
焦りながらも、よくみてみる。
すると音程を変える指穴の部分がわれているではないか。
「昨日までなんともなかったのに……」
頭がクラクラした。
「どうしよう……」
自分ではどうすることもできない。
しかし、諦めることもできない。
そこで、藁にもすがる思いで先生に相談をしてみた。
「修理にだしてあげるよ」
案ずるよりも産むがやすし。
希望がみえてきた。
さて、こうしてしばし待っていたところ、先日、とても綺麗になって戻ってきた。
相変わらず下手の横好きにはちがいない。
しかし、笛を吹いていると気持ちが落ち着く。
世の煩いからしばし離れられる。
「この音だ!」
久しぶりにきく音色は今まで以上に心身を楽にしてくれた。
発心集に以下の記述があります。
『聖徳太子の磯長墓(しながのはか)に覚能という聖が住んでいた。云々。朝夕することは、板の切れ端で上手に琴・琵琶の形を作り、管絃としてかけて弾く。竹を切って笛の形に彫り、これを吹いて興に入る。云々。何年か後、この聖は、思い通りの臨終で、来迎の音楽を耳に聞きながら命を終えた。云々。今から五十年ほど前のことなので、老人たちの中には見たひともいるのではないだろうか。管絃も、浄土への行業だと信じる人のためには、往生の行いとなるのである』
【角川文庫 発心集下 鴨長明著 浅見和彦・伊東玉美訳注P246】
ありがとうございました。