見た目 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

水引の稽古に参加していたときだ。

 

受講生二十人のうち、寺院関係者は私だけだった。

 

先生も、お寺関係の方ではない。

 

水引を専門に教えておられる五十才くらいの女性だ。

 

その日は、作成した作品を色紙に設える課題が与えられた。

 

授業の後半、作り終えると先生に確認を求めた。

 

「いいでしょ。あっ、凉心さんは色紙に毛筆で名前を書きなさい」

 

先生はそう言うと筆を取りだしてきた。

 

「いやいや、いいです。このままで」

 

「どうして。名前があった方が素敵だよ。お坊さんなんだから字も上手でしょう」

 

ああ……。

 

習字は小学一年生のころから五年間習っていた。

 

しかし、一向に上手くならなかった。

 

取り組み方の問題はあった。

 

しかし、言い訳をするつもりはないが、完全にセンスがないのだ。

 

いよいよ目の前に筆が置かれた。

 

もう逃げられない。

 

腹をくくった。

 

「……」

 

室内の空気の流れが一瞬とまり、先生も受講生も無言になってしまった。

 

きっと草書や行書でサラサラと綺麗に書く姿を想像していたのだと思う。

 

ところが、出来上がったのは、ガチガチの楷書でしかもアンバランスな字だ。

 

多くのお坊さんは字が上手い。

 

でも、そうでない奴もいるんです。

 

人は見かけによらないこともあるんです。

 

そう言えば、こんなこともあった。

 

先日、車を運転していたときのことだ。

 

信号待ちをしながら、左側をながめているとビルから男性が出てきた。

 

五十才くらいであろう。

 

黒い背広、ネクタイなし、黒いサングラス、スキンヘッド。

 

あきらかに怖い雰囲気が漂っていた。

 

大股で歩きながら、歩道を過ぎガードレールの隙間から車道に出てきた。

 

「うわっ」

 

何をするのだろうかと警戒する。

 

すると、……。

 

驚いたことに、L字側溝におちているタバコの吸い殻を素手で拾い始めた。

 

しかも、どんどんその範囲が広がっていく。

 

信号で止まっていた時間は、一分少々であろう。

 

しかし、発車した時はまだ掃除は継続中だった。

 

やはり、人は見かけによらないことがあるのである。

 

もちろん、こちらは私とは違い、よい意味での見かけちがいだ。

 

こんなこともあった。

 

十年程前のことである。

 

先輩のお寺へ雅楽の稽古に行ったときだった。

 

一通り合奏を終えると、次の予定を決めることになった。

 

「ちょっと待っていてね」

 

先輩は、そう言うと奥の部屋に行き、タブレットパソコン持って戻ってきた。

 

「いつにする」

 

パソコンを操作しながらそう言った。

 

「手書きの手帳とかカレンダーではないんですね」

 

当時はこの点、完全にアナログ派だった私は、すっかり感心してしまい思わず質問をした。

 

「そうそう。親父が言いだしてね」

 

お父さまの発案で、なんと家族五人でタブレットパソコンを揃えたそうだ。

 

「いつでも、どこでも皆の予定を共有できるようにしておきたいんだって」

 

これが、発案理由とは、ますます驚きだ。

 

なにせ、そのとき、お父さまは八十才になられていたのだ。

 

はっきりと申し上げてご老人である。

 

それなのに、こんなに柔軟な思考をされ、しかも、タブレットパソコンを使いこなしている。

 

信じられないことだ。

 

後程、お父さまにお会いしお話を伺った。

 

若い頃からパソコンを使っていたのだそうだ。

 

「だから、現在のデジタル機器の操作なんて朝飯前だよ」

 

笑顔でこう述べられては、こちらはタジタジである。

 

ご老人だからデジタルに弱いとは限らない。

 

人は見かけによらない。

 

再び私とは違い、善い方向での見かけ違いでした。

 

法然上人の御教えに以下のお言葉があります。

 

『うわべをよく見せようという心で称える念仏では往生できません。必ず往生しようと思うなら、うわべを飾る心ではなく、真実

の心で称えなければなりません。言うに足らない幼い子供や動物などに向かっては、自分をよく見せようという心はないのですが、友人や一緒に修行する仲間は言うもでもなく、そのほかいつも見慣れた妻子や親族であっても、東西の方角を区別できるほどの人になると、それらの人に対して、必ずうわべをよく見せようとする心が起こるものです』

 

【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編訳P198】

 

ありがとうございました。