例えばレストランに行く。
希望の食事をいただく。
さて、食後には、どのような言葉を店員さんにかけるであろうか。
「ごちそうさまでした」
多くの人がそのように伝えるはずだ。
「頂いたお料理の食材は何だったのでしょうか」
そんな質問をする人もいるであろう。
「食材の栄養成分を教えていただきたいです」
そこまできく人もいるかもしれない。
どうしてこんなことが気にかかったのか……。
実は、以前「なぜお経は音読みで唱えるのですか」ときかれたことがあるのだ。
「それだと内容がわからないので法要の意義が理解できません」
詳細を伺うと、そのように説明して下さった。
「お経は意味がわからなくても、ただ耳にするだけでも功徳があるのです」
などとは言えない。
間違いではないが、とてもじゃないけれども無理である。
「なるほど」
日本で読まれている経典は漢字で書かれている。
だから、経文をみればおおよその意味が理解できる。
しかし、音を聴いているだけだと確かに難解である。
そこで私は考えた。
「書き下し文で唱えてみよう」
これならば法要の趣意をわかっていただけるはずだ。
早速、次回から始めてみた。
ところが、……。
これがどうにも上手くいかない。
法要の趣が整わない。
「唱え方を変えたのですか」
不思議そうな顔をされる方が何人もいらした。
「駄目か」
多少の工夫をしながら書き下しを続けてみた。
しかし、結局は音読みに戻すことにした。
ただし、以前と全く同じではそれこそ意味がない。
そこで、法要の前に、簡潔に儀式の内容を説明することにした。
そのお陰だろうか。
怪訝な表情をされる方はそれ以来いなくなった。
「何をしているのかわからない」と質問されたこともない。
それどころか、涙を流される方が以前よりも多くなってきたように感じる。
あっ……、まちがっても私の読経が優れている、と言いたいのではないです。
考えてみれば、レストランでも同じかもしれない。
わかっていたほうがいい。
教えてもらえたら有り難い。
でも、栄養がどうとか、産地がどうとか、あんまり細かく解説され続けても……。
美味しさが半減してしまうような気もする。
法要は故人と向きあう時間ともなる。
唱える偈文の文字も、内容も、節も、お釈迦さま由来である。
全て超一流だ。
となると、有意義な時間となるか否かは……、私の実力次第となってしまう。
精進いたします。
法然上人の御教えに以下のお言葉があります。
『もろこし我が朝に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる、観念の念にもあらず。また学問をして念の心を悟りて、申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、 南無阿弥陀仏と申して疑いなく、往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず』
【一枚起請文】
ありがとうございました。