おじいちゃんはメガネ屋だった。
母方の祖父である。
店は自宅とくっついていた。
ちょうど、駄菓子屋さんのようにである。
「いらっしゃいませ」
お客さんが来ると居間から出て行く感じだ。
当然だがお店には沢山のメガネがならんでいた。
陳列棚をみるのは楽しかった。
フレームレス、まん丸レンズ、べっ甲模様。
いろいろなデザインがあった。
なかには奇抜なものもあった。
例えば、真っ赤な幅広フレームだ。
ツルも赤い。
レンズは目の十倍くらいもある。
「こんなのファッションショーの人くらいしかかけないよ」
小学生には不思議なメガネだった。
「カッコイイ」と感じるものもあった。
それは丸めのレンズに黒くて細いフレームだった。
ボストン型である。
ツルも黒色だった。
シャープで素敵だった。
私は視力がとてもよかった。
だから、メガネは不要だった。
しかし、その黒メガネはほしかった。
「このメガネがほしい」
おじいちゃんや母親に頼んではみた。
「あんたには必要ないでしょ」
とうぜん軽くあしらわれた。
手に入らないことは知りながらも、いつも気にかかった。
「まだある」
おじいちゃんの家に行くたびに棚にあることを確認して安堵した。
おねだりすることも毎回忘れずに行った。
さて、どれくらいお願いした後だっただろうか。
「いいよ」
ある日、おじいちゃんがゆずってくれた。
日光にあたると少し黒くなる伊達レンズも入れてくれた。
嬉しかった。
もちろん、大切にした。
天気の良い日には、レンズが黒くなることを確かめた。
おじいちゃんの凄さに感激した。
「賢くみえるかな」
母の鏡台の前でほくそ笑むこともあった。
最近、新たなメガネを購入した。
おじいちゃんにもらって以来である。
老眼が進んできたのだ。
「あれ、メガネしてたっけ」
友人にきかれた。
「老眼だよ」
苦笑いをして答える。
洗面台の鏡に自分のメガネ姿が映ることもあった。
あの頃とは風貌が違う。
「歳をとったな」
やっぱり苦笑いをしてしまった。
お釈迦様の御教えに、以下のお言葉があります。
『歩んでいても、とどまっていても、ひとの命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。―河の水流のようなものである』
【岩波文庫 ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元先生訳P164】
ありがとうございました。