苦笑い | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

おじいちゃんはメガネ屋だった。

 

母方の祖父である。

 

店は自宅とくっついていた。

 

ちょうど、駄菓子屋さんのようにである。

 

「いらっしゃいませ」

 

お客さんが来ると居間から出て行く感じだ。

 

当然だがお店には沢山のメガネがならんでいた。

 

陳列棚をみるのは楽しかった。

 

フレームレス、まん丸レンズ、べっ甲模様。

 

いろいろなデザインがあった。

 

なかには奇抜なものもあった。

 

例えば、真っ赤な幅広フレームだ。

 

ツルも赤い。

 

レンズは目の十倍くらいもある。

 

「こんなのファッションショーの人くらいしかかけないよ」

 

小学生には不思議なメガネだった。 

 

「カッコイイ」と感じるものもあった。

 

それは丸めのレンズに黒くて細いフレームだった。

 

ボストン型である。

 

ツルも黒色だった。

 

シャープで素敵だった。

 

私は視力がとてもよかった。

 

だから、メガネは不要だった。

 

しかし、その黒メガネはほしかった。

 

「このメガネがほしい」 

 

おじいちゃんや母親に頼んではみた。

 

「あんたには必要ないでしょ」

 

とうぜん軽くあしらわれた。

 

手に入らないことは知りながらも、いつも気にかかった。

 

「まだある」

 

おじいちゃんの家に行くたびに棚にあることを確認して安堵した。

 

おねだりすることも毎回忘れずに行った。

 

さて、どれくらいお願いした後だっただろうか。

 

「いいよ」 

 

ある日、おじいちゃんがゆずってくれた。

 

日光にあたると少し黒くなる伊達レンズも入れてくれた。

 

嬉しかった。

 

もちろん、大切にした。

 

天気の良い日には、レンズが黒くなることを確かめた。

 

おじいちゃんの凄さに感激した。

 

「賢くみえるかな」

 

母の鏡台の前でほくそ笑むこともあった。

 

最近、新たなメガネを購入した。

 

おじいちゃんにもらって以来である。

 

老眼が進んできたのだ。

 

「あれ、メガネしてたっけ」

 

友人にきかれた。

 

「老眼だよ」

 

苦笑いをして答える。

 

洗面台の鏡に自分のメガネ姿が映ることもあった。

 

あの頃とは風貌が違う。

 

「歳をとったな」

 

やっぱり苦笑いをしてしまった。

 

 

お釈迦様の御教えに、以下のお言葉があります。

 

『歩んでいても、とどまっていても、ひとの命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。―河の水流のようなものである』

 

【岩波文庫 ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元先生訳P164】

 

ありがとうございました。