先般、担当している講座に四十代くらいのかたがいらした。
不肖の身ではあるが、ときにお経の稽古を勤めることがある。
その人は、緊張した面持ちだった。
受講している方々の平均年齢は五十才ほどであろう。
多くの方は会社に勤めておられる。
あるいは、定年後に仏教の勉強をされている方だ。
その方は、ぼうずあたまの男性だった。
おそらくこれから僧の修行に入るのであろう。
受講者のなかには、同じように僧になろうとしている人もおられる。
ただ、そういう方はたいがい二十代である。
その点からすると、その方は少し年齢が高い。
「もしかするとそれで緊張おられるのかな」
私にはそのように感じられた。
私がお寺の勤めを始めたのは三十才を過ぎてからである。
それまでは、会社勤めをしていた。
多くの僧侶は、大学を卒業するとっまもなくお寺で勤め始める。
そして、作法を研鑽し、教えを学び、実務を習得するために努力をする。
私は一回り遅れのスタートである。
同じ歳の僧は皆はるか先を進んでいる。
お経の唱え方も、雅楽の演奏も、お説教の内容も。
「凉心もこっちで一緒に稽古しようよ」
だから、そんなふうに声をかけてくれても怖じ気づいてしまう。
垣根をいくつも越えてくれているのである。
とても有り難いことである。
しかし、気が引けてしまう。
そうかといって同期の若者たちと一緒にいるのも申し訳ない。
「凉心さんはどんな音楽をきいていますか」
皆、フレンドリーに話かけてくれる。
とても有り難い。
ただ、わたしが中学生のときに産まれた方々だ。
ジェネレーションギャップは大きい。
「あっ。あ~」
私の返答に気を遣ってくれているのが伝わってくる。
具体的なミュージシャンの名前は上げられないが、そういうことである。
お寺の仕事を始める際、ある程度は覚悟をしていた。
ただ、実際に身をおいてみると、予想以上に居場所をみつけるのは大変だった。
そこで私は作戦を考えた。
とは言っても単純なものである。
顔を覚えてもらい、ひとより多く稽古をする。
そのために、とにかく稽古を休まないことにしたのだ。
「私も遅くから始めたんですよ」
受講してくださったその男性に声をかけた。
余計なお世話だったかもしれない。
ただ、その方の表情が少し柔らかくなった。
こんな私でも、多少お役には立てたようで嬉しかった。
お釈迦様の御教えに以下のお言葉がございます。
『また以前には怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世を照らす。―あたかも雲を離れた月のように』
【岩波文庫 ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元先生訳p34】
ありがとうございました。