群馬県太田市大光院さまにて、御祈願法要をお手伝いしたときのことである。
大光院さまは、吞龍上人がいらしたことで有名なお寺だ。
江戸時代、大光院さまの周りには生活に苦しむ人々も多かった。
そこで、吞龍上人は貧しい家庭の子供たちを青年になるまで預かり養育された。
上人は、今でも「子育て吞龍」と呼ばれ親しまれている。
上人に手を合わせ、無事成長や安産をお祈りする法要も大切に続けられている。
定時になり雲版(うんぱん)が鳴った。
法要が始まる合図だ。
私も末席ながら読経を勤めるべくお堂に向かう。
堂内に入って行くと、複数のご家族が待っていた。
お父さんの膝に座っているお子さんがいる。
赤ちゃんを抱っこしているお母さんもいる。
足を投げ出して座っている腕白な男の子もいる。
お腹の大きな女性は、旦那さんに支えてもらっていた。
皆さん幸せそうである。
「足が痛い」
法要が始まりしばらくすると、子供が訴えていた。
今時は椅子の生活が当たり前である。
正座に馴れているはずがない。
無理もない話だ。
法要の中盤まで耐えてきたのだ。
むしろ偉いではないか。
法要が終わり、お坊さん達が堂内から下がり始める。
「ダメダメダメ」
今度は立ち上がれないお父さんだ。
お父さんと言っても、二十代か三十代である。
やはり、余程のことが無い限り、日常では正座などしないはずだ。
「無理しないでいいよ」
奥さまが優しく見守っている。
「かっこ悪い」
笑いながら娘さんが手をさしのべていた。
見慣れないお父さんの姿が可笑しかったのだろうか。
微笑ましい。
吞龍上人も仲睦まじい光景をごらんになられて、喜んでおられることであろう。
きっと皆さんの心身の健康を全力で守ってくださるに違いない。
この世は、常ならないものである。
人の力ではどうしようも無いことが沢山ある。
ですから、仏さまや高僧さまの御威光で、どうか子どもたちを必ず幸せにしてあげて下さい。
《日本往生極楽記》に以下のような御記がございます。
<拙僧訳>
[その尼さまは、光孝天皇の孫です。若い時に結婚して、三人の子供がおりました。しかしながら、数年の後、亡くなってしまいました。そして、間もなくご主人も亡くなってしまいました。一人身となったことで、世の中の無常を知り、出家しました。一日一食で過ごしておりました。そして、年をとってくると、腰が痛くなり、身体動作がままならなくなってきました。お医者さまが言うには、身体が疲れているとのこと。ただ、「肉を食べればよくなります」とも、言いました。しかし、尼さまは、身体を治すことに執着はなく、ただ阿弥陀さまを念じることに専念しました。すると、病の苦しさは自然と無くなりました。ところで、尼さまは、柔和で大変優しいひとでありました。だから、虻や蚊が刺してきても、つぶしてしまうことは一切ありませんでした。さて、五十歳をすぎたとき、軽い病にかかりました。さらに、ある日、空中に音楽が響き、隣の里の人は驚いておりました。その際、尼さまは、「それは仏さまが迎えに来てくださったのだ」と言いました。そして、私は今命を終えたいとも言いました。すると、言い終えたのち、往生されました]
〈本文〉
『尼某甲は、光孝天皇の孫なり。少き年に人に適きて、三子ありき。年を連ねて亡せたり。幾もなくして、その夫もまた亡せたり。寡婦として世の無常を観じ、出家して尼となりぬ。日に再食せず、年数周に垂むとして、忽ちに腰病を得て、起居便からず。医の曰く、身疲労せり。肉食にあらざれば、これを療すべからずといへり。尼身命を愛することなく、弥弥陀仏を念じたり。その疾み苦ぶところ自然に平復せり。尼自ら性柔和にして、慈悲を心と為す。蚊虻身を食へども敢へてこれを駈らず。春秋五十有余、忽ちに小病あり。空中に音楽あり。隣里驚き怪ぶ。尼曰く、仏、巳に相迎へたまふ。吾今去らむと欲すといへり。言訖りて気絶えぬ』
【岩波書店 往生伝・法華験記 校注者=井上光貞先生・大曾根章介先生 慶滋保胤上人著p35】
ありがとうございました。