ある方の三回法要をお勤めした後、参列していた五歳の男の子が話かけてくれた。
「お昼寝のときに「ナムアミダブツ」って言ったら、先生に駄目だって言われた」。
保育園での出来事だったようである。
「お昼寝のときは、静かにするんだって」。
先生にそう説明されたそうだ。
法要の最後に法話を行うお坊さんは多いであろう。
重要なことである。
しかし、私は、話も、伝え方も上手くない。
人生への教訓を述べられるほどの人格もない。
そのため、法話は遠慮している。
ただ、称えているお経の意味、お経を称えることの意義などは説明している。
そして、その後「それではもう一度仏さまと故人さまに南無阿弥陀仏を十回お称えしましょう」と勧めて締めくくっている。
男の子は、一周忌法要にも参列していた。
きっと、そのときの説明をきちんと聞いてくれていたのであろう。
ありがたいことだ。
さらに、そればかりか日常において実践までしてくれたのだから、凄い。
念仏には、「後生は極楽浄土へと導いてください」と阿弥陀さまに願う意味も込められている。
つまり普段から、日常のどの場面で称えてもよいのである。
浄土宗を開いた法然上人も「食事の時も、お手洗いに居る時も、寝る前も、念仏を称えましょう」と説いておられる。
ただ、今では通常、法事や葬儀だけが連想されてしまう。
坊さんでもなければ、いきなり日常的に称えることがないのも確かである。
男の子がお昼寝の時間にお念仏を称えたことは尊いことである。
決しておかしな事ではいない。
しかし、男の子の純粋なお念仏と、先生のビックリした姿が想像されると、微笑ましく感じられてきた。
「そうだったんだね。じゃあお昼寝の時は言わないようにしてみようか。その代り、お寺に来たときは、お坊さんと一緒にいっぱい称えることにしよう」。
そう答えると、男の子はすぐに御本尊の前に向かう。
私も追いかける。
そして横に並ぶと、さっそく大きな声での念仏が始まった。
本当に偉い男の子である。
法然上人の御教えに、以下のお言葉がございます。
『《十往生阿弥陀仏経》を引いて、もしも阿弥陀仏のみ名をとなえ、浄土に往生したいと願う人がいれば、阿弥陀仏は二十五人の菩薩たちをつかわして、この人を護って下さる。それは、歩いている時でも座っている時でも、止まっている時でも寝ている時でも、昼でも夜でも、あらゆる時あらゆる所で、悪魔や悪神などに手を出すすきを与えることのないようにして下さる、と述べている。』
【春秋社 法然全集第二巻 選択本願念仏集 大橋俊雄先生訳p303】
ありがとうございました。