恐山を参詣した際、近くの「釜臥山」に登った。
とは言っても、山頂付近の駐車場までバスで行ったのである。
バスを降りると、驚くくらい寒かった。
「やっぱり、ウォームアップを持ってきてよかった」。
数年前、六月に女満別に行った。
夕方、高原の牧場で食事会があったのだが、そこはとても寒かった。
六月の北海道と東京では気温が全く違うことに意識が届いていなかった。
薄手の服装しか用意していなかったため、本当に辛い思いをした。
旅行は、荷物を少なく身軽に行きたい。
しかし、あの経験を繰り返したくはない。
そこで、かさばるところを我慢して持ってきたのだ。
山を下りた後、仲間は、ガイドさんに「ユニクロはないか」と質問していた。
ほらね、十月の北国を甘くみてはいけないぞ。
標高八百メートル以上ある展望台からの風景は美しかった。
風が強く吹き、さらに身震いさせられたが、そのぶん雲一つなく絶景を楽しめた。
紅葉が始まっている山頂付近から麓へと広がる森の景色、そこから市街地、さらに海へ続く光景は綺麗だった。
景色と自分が一つになったように感じられてくる。
引き込まれるように眺めてしまった。
しばらして我に返り始めると、「あ~あ」と今度は思考がまわりはじめる。
私は、子供の頃から都会に暮らしている。
交通の便はよいし、雨でも濡れずあちこちに移動できる。
お店は沢山ある。
必要なものはすぐに手に入る。
制御と管理が行き届いており不自由は少ない。
しかし、今、大きな損をしている気がしてきた。
確かに都心にも自然はある。
しかし、どうにもつくられたもののように感じられる。
趣がない。
下北半島のような美麗な自然でない。
贅沢を言ってはだめだ。
与えられたことを全うするのが大切である。
確かにそうだ。
しかし、「今日は天気がいいから山に行こう」などと、豊かな自然のなかへ気軽に入って行かれる地での生活が、うらやましくなってくる。
「心も身体もゆったりと穏やかになれるんじゃないかな」。
そんなことも想像してしまう。
現実はどこでも甘くはないのかもしれないが……。
「もう時間ですよ」。
後輩から肩をたたかれてしまった。
あわてて自動販売機でホットコーヒーを買いバスに戻った。
恵心僧都源信さまの御教えに、以下のお言葉がございます。
『もし、ただちに仏を念ずることができないならば、〔そういうひとは〕さまざまな事に寄せて、その心を起すように勧めるとよいだろう。いってみれば、遊び戯れ、談笑しているときは、宝玉に飾られた極楽浄土の池や林のなかで天人や菩薩たちと一緒に、このように楽しむことができたら、と願い、もし憂い苦しんでいるときには、多くのひとたちと一緒に苦しみを離れて極楽に生まれたい、と願うのである』
【平凡社 東洋文庫21 往生要集2 源信上人著・石田瑞麿先生訳p59】
ありがとうございました。