お迎え | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

生死の境を経験された方からお話を伺ったことがある。
 

その方は、ある日突然意識を無くしたのだそうだ。

 

七十才くらいの男性である。

 

たまたま倒れたのが自宅だったので奥さまが気づき、急いで救急車を呼んだ。

 

病名は大動脈解離だ。

 

血管が切れてしまったらしい。

 

さいわいにも、早期に治療をしてもらえたため、最悪の事態は避けられた。

 

なによりである。

 

ところで、倒れてから意識が戻るまでは、文字通り意識はない。

 

意識がないのだから、救急者に乗っていたことも、手術を受けたことも知らない。

 

記憶などあろうはずがない。

 

ところがその方は、意識を失っていた間、女性と会っていたらしい。

 

自分は河の手前にいて、女性は河の向こうにいる。

 

「どこかであったことのあるような、ないような」。

 

女性が誰であるのかは特定できないが、少なくとも雰囲気の悪い人ではなかったそうだ。

 

女性は手招きをしてくる。

 

「こちら側に渡ってきないさい」と誘ってくれているようだった。

 

嫌な気分はしない。

 

向こう側も楽しそうにみえる。

 

渡ってもいい。

 

そう思ったそうだ。

 

ただ、まだ渡る時期ではないように感じる。

 

ちょっと早い気がする。

 

そこで、「もうしばらくこちら側にいます」と女性に伝えた。

 

それを聞くと、女性は静かに笑顔で去っていった。

 

すると、まもなくして病床の景色が目に入ってきたそうだ。

 

「よくお迎えがあるっていうでしょ。あれ本当だよ」。

 

男性は、笑顔で教えてくれた。
 

また、お迎えの体験は優しさに包まれたような感覚があるらしい。

 

「だから、死ぬことへの怖さは薄らいだね」。

 

最後にそう伝えてくれた。
 

私のような立場からすると、お迎えに来てくださったのは、阿弥陀さまか菩薩さまなのではないかと考えてしまう。
 

浄土教の教えには、「念仏の行者は臨終に際し、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩等がお迎えに来て下さる」と書かれている。

 

男性のお迎えは、まさにその裏付けのようである。
 

「やさしそうな女性」がお迎えに来てくださったのか……。

 

そうなると、観音菩薩さまの化身なのかもしれない。


観音経の中に、以下のお記しがございます。
 

『〔前文略〕このように、観世音の変身はまさに抜群で、およそ成れないものはない。梵天や帝釈天あるいは毘沙門天はおてのものだし、お金持ちや信仰心篤い人格者、さまざまな御婦人方や子供、はては、夜叉や乾闥婆あるいは阿修羅というような、人のようで人でない者の姿にもなり、そして、救うべき人に近づいてそっと教えを説く。そのあざやかさは、それと気がつかぬほどだ。まあ、そうした変身のさまは、切がないから三十三通りとしておくが、無尽意、このようにして観世音は、いろんなところに出向いていき、そして、人生の困難にあえいでいる人を救うんだ。だから、皆、観世音菩薩を一心に供養しなさい。―さて、ここで、いままで述べてきたことを要約しておくと、観世音は文字どおり大菩薩で、危急存亡の時にさいして、人々の畏れを取りのぞき、安穏をもたらす―。だから、この菩薩は、いってみれば《施無畏者》なのですよ。』
【春秋社 観音経のこころ 多川俊映・興福寺貫主様著p271】
 

 

ありがとうございました。