生死の境を経験された方からお話を伺ったことがある。
その方は、ある日突然意識を無くしたのだそうだ。
七十才くらいの男性である。
たまたま倒れたのが自宅だったので奥さまが気づき、急いで救急車を呼んだ。
病名は大動脈解離だ。
血管が切れてしまったらしい。
さいわいにも、早期に治療をしてもらえたため、最悪の事態は避けられた。
なによりである。
ところで、倒れてから意識が戻るまでは、文字通り意識はない。
意識がないのだから、救急者に乗っていたことも、手術を受けたことも知らない。
記憶などあろうはずがない。
ところがその方は、意識を失っていた間、女性と会っていたらしい。
自分は河の手前にいて、女性は河の向こうにいる。
「どこかであったことのあるような、ないような」。
女性が誰であるのかは特定できないが、少なくとも雰囲気の悪い人ではなかったそうだ。
女性は手招きをしてくる。
「こちら側に渡ってきないさい」と誘ってくれているようだった。
嫌な気分はしない。
向こう側も楽しそうにみえる。
渡ってもいい。
そう思ったそうだ。
ただ、まだ渡る時期ではないように感じる。
ちょっと早い気がする。
そこで、「もうしばらくこちら側にいます」と女性に伝えた。
それを聞くと、女性は静かに笑顔で去っていった。
すると、まもなくして病床の景色が目に入ってきたそうだ。
「よくお迎えがあるっていうでしょ。あれ本当だよ」。
男性は、笑顔で教えてくれた。
また、お迎えの体験は優しさに包まれたような感覚があるらしい。
「だから、死ぬことへの怖さは薄らいだね」。
最後にそう伝えてくれた。
私のような立場からすると、お迎えに来てくださったのは、阿弥陀さまか菩薩さまなのではないかと考えてしまう。
浄土教の教えには、「念仏の行者は臨終に際し、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩等がお迎えに来て下さる」と書かれている。
男性のお迎えは、まさにその裏付けのようである。
「やさしそうな女性」がお迎えに来てくださったのか……。
そうなると、観音菩薩さまの化身なのかもしれない。
観音経の中に、以下のお記しがございます。
『〔前文略〕このように、観世音の変身はまさに抜群で、およそ成れないものはない。梵天や帝釈天あるいは毘沙門天はおてのものだし、お金持ちや信仰心篤い人格者、さまざまな御婦人方や子供、はては、夜叉や乾闥婆あるいは阿修羅というような、人のようで人でない者の姿にもなり、そして、救うべき人に近づいてそっと教えを説く。そのあざやかさは、それと気がつかぬほどだ。まあ、そうした変身のさまは、切がないから三十三通りとしておくが、無尽意、このようにして観世音は、いろんなところに出向いていき、そして、人生の困難にあえいでいる人を救うんだ。だから、皆、観世音菩薩を一心に供養しなさい。―さて、ここで、いままで述べてきたことを要約しておくと、観世音は文字どおり大菩薩で、危急存亡の時にさいして、人々の畏れを取りのぞき、安穏をもたらす―。だから、この菩薩は、いってみれば《施無畏者》なのですよ。』
【春秋社 観音経のこころ 多川俊映・興福寺貫主様著p271】
ありがとうございました。