仕事の打ち合わせで、隣町の大きなお寺さまに伺った。
お寺に到着すると、早速、御住職が客間へと案内して下さった。
客間へ向かう廊下を歩いていると、壁に沢山の絵が飾られていた。
仏さまを描いた絵である。
キョロキョロと見まわしていると、「このお寺の御本尊を描いたんですよ」とご住職が説明をしてくれた。
隣接している幼稚園の園児の作品のようだ。
子供達の絵は、創造性豊であった。
例えば表情もその一つである。
通常、仏像は瞑想している御姿だ。
半目をあけた静かな表情である。
ところが、子供達の仏さまはみんな満面の笑顔なのだ。
仏さまが多くの子供達と手をつないでいる絵もあった。
まるで、保育園や幼稚園の先生のようである。
本来は、印を結んでいるに違いない。
猫、犬、鳥、なかにはくじらが一緒に書かれている作品もあった。
まさに極楽浄土をも超えている世界といえようか。
生き物を大切にしているこころが感じられてくる。
また、ほとんどの絵には、丁寧に光背が描かれていた。
仏像の背中にある、いわゆる後光だ。
光背は、普通、金色である。
しかし、子供達の手にかかれば鮮やかな虹色と変化する。
素敵な絵のお陰で、客間に入る頃には、こころが温かくなっていた。
子供達の純粋で優しい気持ちが伝わってきた。
打ち合わせの休憩時間、再び絵を見に行った。
そして、しばし考える。
「うらやましいな」。
きれい事を言うわけではないが、大人になるにつれ裏表がない素直な表現をすることが難しくなっているように感じる。
好きな龍笛を吹いても、「上手く吹いてやろう」とか、「他のひとよりも良い演奏をしよう」などと、考えてしまうことがある。
周りの人の評価も気にかかる。
「下手だね」とか、「音痴だね」などと言われるのではないかと警戒してしまうのだ。
「子供の頃に戻りたい」。
昔はあれほどはやく大人になりたかったはずなのに、実に不思議である。
「日本霊異記」に、以下のお話があります。
『前文略。これで、ほんとうに仏法の守護神がいなことはないのだということがわかる。なんで敬い礼拝しないでよかろうか。『法華経』にお説きになっているとおりである。「もし童が戯れに木や筆、または指の爪先で仏像を描こうとするような場合でも、彼らは後にはみな仏道を修得することになる。また、片手を上げ、少しでも頭をたれて礼をし、これによって仏像を供養したならば、世にたぐいない仏道を成就するのである」とおっしゃっている。こういうわけで、仏法をつつしみ、信じなくてはいけない』
【講談社学術文庫 日本霊異記(下) 中田祝夫先生著p206】
ありがとうございました。