多彩な才能の持ち主は、うらやましい。
色々な学問、様々な運動、沢山の技能を一流にこなせるのは凄いと思う。
世の中でも、そのような人々には注意が集まる。
確かに秀外恵中の人々は社会への貢献は大きいので、注目されるのは当然だ。
しかし、多くの人々は平凡であり、天賦の才能を持ち合わせてはいない。
だから、才色兼備でいない者は、肩身の狭い思いをすることがないこともない。
そこで、少し大袈裟だが考えた。
「では、私のようなものは、どのように生きて行けばいいのだろうか」、「何を指針に日々を送ればいいのだろうか」。
お寺の仕事を始めて間もなく、「声明」の稽古に通うようになった。
「声明」とは歌のようなお経のことだ。
稽古では、先生が初めにお手本のお唱えを示して下さる。
生徒は、まずその節をよくきかなければならない。
次は、先生の真似をするようにして、一人ずつ唱えていくからだ。
私のようなものが言うのもおこがましいが、先生の声明は素晴らしい。
声色の繊細さ、声量の多さ、旋律の間など、何れも華麗である。
私も是非その通りに称えたいと、いつも思う。
それゆえ、稽古中に自分の番が来たときには、精一杯真似をしようと努力している。
しかし、どうにも上手く出来ない。
音量も、節まわしの美しさも、比べものにならない。
稽古に行く度に、帰りは落ち込むことになる。
そんなある日、先生が稽古中に雑談をしてくださったことがあった。
それは、先生が若い頃に感じていた、「僧侶の有るべき姿」のことだった。
僧侶と言えば、お説教が上手で、字が達者で、お経の声がよく、仏教学に精通している、などのイメージがあるかもしれない。
いや、イメージではなくそのような方もいらっしゃるかもしれない。
僧侶に成り立ての頃の先生も同じようなイメージを持ち、あらゆることに努力を重ねていたそうだ。
ところが、何年か経ってくると、違和感が出てきたそうである。
「どの稽古も中途半端になっている」
「注ぐ力が分散されているように感じる」
そこで、いずれの分野も基準を満たしておくことは必要だが、それ以上に努力するものは「声明に絞ることにしよう」と考えたそうだ。
それから数十年、声明の研鑽を続けていらっしゃるとのことだ。
先生は、声明はもちろん、字も綺麗だし、普段のお話も面白い。
しかし、そんな方であっても、あえて一つに集中して力を注いだそうである。
それならば、私など言うまでもない。
お話をうかがって以降、特に頑張ることは一つだけにすることと決めた。
沢山のことが上手にできることは良いことかもしれない。
でも、私には出来ない。
だから、周りの方にあれこれ言われても、今はそのことを指針に暮らしている。
道元禅師の「正法眼蔵随聞記」に、以下の御教えがございます。
『小ざかしく処世術に長じている者よりも、頭が悪そうでいて、ひたむきな志をおこす人のほうが、かえって早く悟りを得るものである。釈尊のお弟子の周利盤特は、愚かで、たった一つの偈も声に出して読むことができなかったが、心根のひたむきなところがあったから、一夏九十日の間に悟りを得た』
【ちくま学芸文庫 正法眼蔵随聞記 水野弥穂子先生訳P215】
ありがとうございました。