よい思い出     | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

日曜の午後。


仕事からの帰り道、代々木公園を通り抜けて帰ることしにした。
 

かれこれ三十年。

 

小学生の頃の遠足きて以来だ。

 

小田急線が走っている側の門から入る。

 

緩やかな階段を五十メートルくらい登ると、だんだんと大きな高い木々に覆われてくる。
 

木々が生い茂る道を進んでいくと、園内の中央広場に出る。

 

広さは、野球場が二つ分くらいは取れるくらいだろうか。

 

そこでは、沢山の人が思い思いに休日を楽しんでいた。

 

読書、ヨガ、犬の散歩、ギター、トランペット、バトミントン。
 

暖かい日差しが差し込む、穏やで和やかな休日である。

 

ちょっとうらやましくなってくる。

 

公園には、自転車コースもあった、

 

二キロの周回コースと、子供用のコースだ。
 

子供用のコースでは、補助輪を外すための練習場もあった。

 

ちょうどそのときは、幼稚園生くらいの女の子が、「まだ手をはなさないでね」と大きな声をだしながらフラフラと漕いでいた。
 

手も肩もガッチガチに力が入っている。

 

必死の形相だ。
 

お父さんは、「もってるよ」と笑顔で応えながら一緒に走る。
 

お母さんも、「頑張れ」と応援していた。

 

私はその様子を微笑ましくながめながら、通りすぎて行く。

 

さて、親子の姿が視界から外れると、「バシャ」と音がして、「ウアー」と泣き声がきこえてきた。

 

先程の女の子が倒れて、足をすりむいてしまったようだ。

 

お父さんとお母さんは慌て傷の確認をする。

 

幸いたいしたことは無いようであった。

 

悪気はないが、私はニコニコと笑みを浮かべてしまった。

 

痛い思いをした女の子には災難である。

 

しかし、大きくなったときには大切な思い出になっているはずだ、と感じられていたからだ。

 

私にも似たような出来事はある。

 

小学校一年生のときに、父親に木魚のたたきき方を教わった。

 

ただし、「文字と文字の間に打つんだぞ」と一度説明をうけただけ。

 

後は、「聴いて覚えなさい」と言われる。

 

ところが、それだけでは六歳児には難しい。

 

何回やってもあちこち間違える。

 

翌日も、その翌日も間違える。

 

すると気の短い父親に、「なんで出来ないんだ」と何度も叱られた。

 

訳もわからず泣きながらたたいていたが、今ではとても善い思い出で……。

 

これは違いました。

 

例えが悪かったです。

 

いずれにしても、女の子の出来事は必ず素敵な思い出になるにちがいありません。

 

 

「無量寿経」に、以下の御記がございます。
 

『〔そもそも〕世間の人々は、親子・兄弟・夫婦・諸々の親類縁者であれば、互いに敬って親愛しあい、〔また〕互いに憎んだり妬んだりすることなく、〔物が〕ある時もない時もともに分かち合い、意地汚く独り占めするようなこともなく、言葉遣いも表情もいつも穏やかで、お互いに誤解し仲違いするようなことがあってはならない』
 

【現代語訳 浄土三部経 浄土宗総合研究所編p131】
 

 

ありがとうございました。