魂のゆくえ | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

亡くなられたお兄様の行き先を案じておられる方がいらした。

 

「兄は、浄土で両親と会えるのですよね」と法要の後に。

 

今まで、笑ったり、怒ったり、歌ったり、泣いたり、悲しんだりしていた人が動かなくなる。

 

身体はそのままなのに……。

 

どうなってしまったのか。

 

どうなってしまうのか。

 

火葬された身体、つまり遺骨は唯の物なのか。

 

それとも身体がなくなっても、何かが存在し続けているのか。

 

不可思議に思うところである。

 

仏教では「魂のようなもの」の存在を信じている。

 

「修行僧たちよ。これは、悪魔・悪しき者が、立派な人ゴーディカの識別力を探しもとめているのだ。―『立派な人ゴーディカの識別力(魂のようなもの)はどこに安住しているのであろうか』と」¹と、原始仏典には書かれている。

 

法然上人も、「無常の風がひと度ふけば、命の露は滅してしまう。身体は荒地に捨てられたり、山に置かれたりする。遺体は苔の下に埋もれ、魂はひとり辺りをさまよう」²と述べている。

 

では、身体を離れた「魂のようなもの」はどうなるのか。

 

仏教では、誰もがご存じのように輪廻転生を信じている。

 

そう、「魂のようなもの」は輪廻転生し続けている。

 

死後、次にどこに転生するのかは、これまでの行いによって決まる。

 

ならば、身命があるときには善い行いをすることが大切となる。

 

ところが、多くの人は仏教が説くところの善い行いができない。

 

よって、次は苦しい境遇に転生することになる。

 

しかし、そんな人々が救われる方法がないわけでもない。

 

仏さまに助けを求め救っていただくのである。

 

「〈これは、かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いたひとのストゥーパである〉と思って、(これを拝めば)多くの人は心が浄まる。かれらはそこで心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の世界に生まれる」³と、原始仏典にある。
 

無量寿経にも、「それが誰であれ、まことのこころを持って私(阿弥陀如来)の国(極楽浄土)に生まれたいと願ったのであれば、その人が命を終えた後、必ず私は迎えに行きます」⁴と記されている。

 

たとえ死後であっても救っていただくことが出来る。

 

「中国におられた尼僧の妙雲上人は、幼少のとき父母を亡くした。以来、30年間念仏を称え両親の往生を願った。両親は妙雲上人の功徳により、地獄を脱して浄土に生まれることができた」⁵と、法然上人は記されている。

 

周りの人々が死者にかわって仏さまに願えば救っていただけるのである。

 

法要を勤めた方は、お兄さまのためにもご両親のためにも念仏をお称えされた。

 

であるならば、間違いなく阿弥陀如来が皆を極楽浄土に連れていってくださったに違いない。

 

「だからお会いされて、楽しく過ごしておられるでしょう」と、私はお答えした。

 


ある方が、臨終間際に「法然上人に今一度お目にかかりたい」と望まれた。
 

しかし、法然上人は事情で行くことができなかった。
 

そこで、下記の御手紙をお書きになられた。
 

 

『必ずや同じ阿弥陀仏の浄土に生まれ合わせて、浄土の蓮台の上で、この世での憂鬱なことや前世からの関わりを一緒に語り合い、お互いに来世で教化し合い助けることが、本当に大事なことでありますと、初めから申しておきました』
 

【現代語訳 法然上人状行絵図 浄土宗総合研究所編 p192】
 

 

ありがとうございました。

 

1・【岩波文庫 ブッダ―悪魔との対話 中村元先生訳P52】

2・【浄土宗全書第9巻 浄土宗典刊行会編p612】を拙僧が意訳

3・【岩波文庫 ブッダ最後の旅 中村元先生訳P133】一部拙僧が追記

4・【現代語訳 浄土三部経 浄土宗総合研究所編P51】を拙僧が意訳

5・【春秋社 法然上人全集第三巻 大橋俊雄先生訳P106】を拙僧が意訳