以前、ある大きなお寺さまで行われた、80名程の信者さんと15名程の僧侶で勤める法要に参加した。
参加者は年配の方が多かったが、若い方もいた。
法要は、厳かに勤められ1時間程で無事終えた。
その後、懇親会が開かれ、お茶とお菓子をいただきながらしばらく歓談。
初めは皆緊張していたが、しだいにほぐれてくるとそれぞれの思いを語り始めた。
「今年定年になりましてね。時間ができたでしょ。そうすると色々と考えるようになってね。「人生ってなんなのかな」なんて疑問も湧いてくるんですよ」
「私は40代です。昨年友人がなくなりまして。今でも落ち込んだり、泣けてきたり、悲しくなったり、怖くなったりすることがあるんです。だから法要に参加してみようと思いました」
「会社に勤め始めて5年になります。これから先の人生の指針を求めて勉強しているうちに、仏教に興味が出てきました」
多くの人が、とても真摯に仏教と向き合っていることに驚いた。
また、「わからないなりにも読経をして、気持ちが落ち着いてきた」「お経を読めないので、ただ聞いていたのだけれども、なぜか涙がこぼれてきた」「お経を称えていたら、なんだか今まで何をしてきたのだろうかと反省し始めていた」などと語る人もいた。
あるいは、「お坊さん足しびれないの。俺は痛くて痛くて大変だったよ」と和ませてくれる人もいた。
普段は「あれもこれもやらなきゃ」と日常のことに追われ、インターネットやテレビ、雑誌など、周りからの刺激を受け続けている。
そんな中にあると、静かに自分を振り返ったり人生を考えたりすることは難しいかもしれない。
また、自分が何を感じているのかを自覚することもおろそかになりがちだ。
だから、短い時間であっても日常から離れ、周りの刺激から守られた時間を過ごすことは、とても重要だと感じる。
法要もその1つ。
そこで何が得られるのかは、わからない。
どんな気持ち、思い、考えが自分の中からでてくるのかもわからない。
しかし、そうして出てきたものを受け止めながら生きていくことがとても大切なのだと思う。
恵心僧都源信さまのお言葉に、以下のようなお言葉がございます。
『世に尊ばれる仏に、身心を捧げて礼拝するか、もしくはみ名を唱えるならば、百千劫にわたって尽きない煩悩の重い障りを除かれる。
まして心を正しくして心静かな念仏に専念すれば、なおさらのことである』
【平凡社 東洋文庫21 往生要集2 恵心僧都源信さま著・石田瑞磨先生訳p160】
ありがとうございました。