ほとんどの日本人が忘れてしまった

大東亜戦争の激戦地、

ペリリュー島に行ってきました。


10年ほど前には硫黄島に行かせてもらっていて、以来一度行きたいと思っていたところ、2015年に天皇陛下も訪問され、ますます行きたい場所になっていたので、やっと今回念願がかないました。


島まではパラオのコロール島からボートで1時間半ほど、世界遺産のロックアイランドを眺めているとここが戦地だったとは思えません。


島に着くとすぐに戦没者の慰霊碑に

アンガウル島の生き残りの船坂弘さんが

本の印税で建てられたと聞きました。



お線香をあげさせていただきました。



次に向かったのは

弾薬倉庫跡を利用した戦争博物館。


ガイドの石川さんの解説が素晴らしくて

戦いの様子がよくわかりました。



 ペリリュー島には34人の生き残りの方々がおられ、戦後も壕にこもり抵抗されていたことを知りました。

そのお一人の土田喜代一さんは、著書も残されていて、ペリリュー島で講演もされたそうです。また読んでみます。


また、ペリリュー島の戦いの様子を伝えるため17人の兵士が泳いでコロール島まで渡ろうとし、13名が亡くなったことも聞きました。

40キロ以上の距離。サメもいる海域でなんと勇敢なミッションでしょう。




続いて向かったのは日本軍司令部跡。

今でも部分的に建物がしっかり残っていて、数年前の巨大台風の時には島民の避難所に使われたそうです。


また、島には日米両軍の戦車や零戦の一部が残っています。

戦車1つとっても大きさが違い、物量の差を感じずにはおれません。




そして、午前中最後は飛行場跡を見に行きました。

この滑走路を狙って米軍はペリリュー島を攻めたわけですが、3日で落とすはずが80日近くかかり、結局ペリリュー島より先にフィリピンが落ちることになりました。


凄い戦いを見せたわけです。



お昼は2015年に天皇陛下もご休憩された

キャンプベックドックで!

休憩所は我々も見学できます。



またここから米国が上陸しようとした

オレンジビーチが一望できます。



こんな穏やか浜辺が激戦地だったとは。

沖縄もそうですが、なかなか想像できません。




午後は天皇皇后両陛下も訪問された平和公園に。

なんとこちらのモニュメントは昭和60年の38日に作られていて、我々が訪問したのは平成31年の3月8日でした。



次に米軍墓地跡にいきましたが、こちらにあったお墓は全てアーリントン墓地に移設されていました。


日本は今でも遺骨収集をしています。

この違いは、、、、




最後は、

ペリリュー神社を参拝してから、その裏の大山に登りました。

ここには陸軍の参謀本部壕があります。




そして今回は特別に、

米軍がデスバレーと呼んだ激戦地を抜けて

陸軍のトップであった中川州男大佐の自刃の地にも案内していただきました。



こんな場所で戦っていたのかと思うと胸が苦しくなります。


大佐の遺骨は、米軍に回収され遺族に返されるはずでしたが、奥様が「兵隊の亡骸がペリリュー島にたくさん残っているのに、大将が先に帰るわけにはいかない」といわれ、今でもペリリュー島のどこかに眠っておられるとのことでした。


ペリリュー島の戦いは

日本軍1万対米軍4

火力の差は100倍だったそうです。


日本軍は全滅でしたが、

米軍にも同じくらいの被害を与え、

部隊をいくつか壊滅させた戦いでした。


アメリカでは硫黄島の戦いに並んで、

有名な戦いですが、日本ではほとんど忘れられた戦いです。


従来型の水際戦を辞めて、島の中に壕を作って戦う作戦は硫黄島に引き継がれ、それが大きな戦果に繋がりました。


しかし、その戦法は戦う兵士には本当に辛かったと思うのです。


今回もたくさんの壕を見ましたが、これを数ヶ月で全部掘ったとは、、、

先人は本当に凄いことをやり遂げました。



その労苦と勇気を、米軍の将軍も讃えているのに日本人が知らなくてどうします?



今回やっと現地で体験できたので、

私も今後一層、先の大戦の意義や

先人の活躍、負けた敗因などを若い世代に伝えたいと思います。