今回のイスラエルの旅の一つの目的は、イスラエルで生まれたKIBBUTZ(キブツ)を視察することでした。
「キブツ」とはヘブライ語で「集団・集合」を意味する言葉で、相互扶助と原始共産主義に基づく「共同体(コミュニティ)」のことです。
キブツの歴史は、1909年帝政ロシアの迫害を逃れた若いユダヤ人男女の一群が、シオニズム思想をもってパレスチナに行き、最初のキブツ・デガニアをガリラヤ湖畔に作ったところからスタートしています。
彼らは、自分たちの国家を建設しようと、生産的自力労働、集団責任、身分の平等、機会均等という4大原則に基づく共同体をつくり、当時は荒地だったイスラエルの地に植民していったわけです。
今回はミツペ レビム、デカニア、サデエリアフという3つのキブツを訪問ましたが、荒野に町を作っていった歴史を教えてもらい、その気概に圧倒されました。
入植してきた者の多くは10~20代と若く、私有財産を持たない貧しい共同生活をしながら荒地を開拓していき、1948年の建国後は中東戦争の前線で戦いも続けてきました。
現在は国境地域を中心に約270のキブツが存在し、それぞれのキブツの構成員は100~1000人、総勢15万人以上になっているそうです。
どのキブツもスタートは農業からで、キブツの周りには広大な農地があり、その中の一角に生活区域があります。
生活区域には、食堂を中心に、小中高の学校、病院、シナゴーグ、売店、テニスコートやグランドなどのスポーツ施設に娯楽施設までそろっています。完全に町ですね。
農地開拓から始まったキブツのメインの産業は農業や酪農で、人口の数%を占めるに過ぎないキブツが、イスラエルの農産物の40%を生産し、国の食料自給100%を支えています。
また近年は、農業や酪農による収入は全体の15%にすぎず、70%を工業生産物などの製造販売売り上げがしめるなど、事業体としての機能を高めているのです。
そうして得られた収入は、いったんキブツに集められ、食事、光熱費、教育、医療、福祉の費用にあてられ、キブツではこれらがすべて無料です。
残ったお金は職種や地位に関わらず頭割りで分配しているキブツもあれば、その人がキブツに収めた額に応じて分配するようなキブツもあります。
以下では我々が訪問したキブツを簡単に紹介します。
〔ミツペ レビム〕
ネゲブ砂漠にあるこちらのキブツは、1943年にドイツ人、イタリア人、現地人の3人の若者からスタートしました。
当時はキブツ開拓を勧める機関があり、彼らは水のあるガリヤラ湖の方への派遣を想定していたようですが、なんと南の砂漠の中に送りこまれ、ベドウィンから土地を譲り受け、入植を始めたそうです。
当時のイスラエルはイギリスの統治下で、名目は現地の調査ということで入ってきたとそうです。
砂漠の中なので最初は、先人が貯水槽として作った洞窟でくらし、徐々に地上に建物を建てていったようです。
1944年には、初代首相になるベングリオンもここを訪ね、情報難民状態だった彼らはベングリオンからラジオをもらったとのこと。
入植当時はお金がなく、シオニズム運動を支援する団体や篤志家からの寄付で活動し、1950年代になんとか農業で生計が立てられるようになったとのことでした。
中東戦争時には、キブツそのものが最前線の要塞の役割を果たしていたとのことで、今でも土塀や輸送機などが残してありました。
キブツはただの平和な農業共同体ではなかったんです。
〔デカニア アレフ〕
ここはイスラエルで一番最初にできたキブツで、1910年に10代の男女9人のウクライナ人からスタートしています。
ガリヤラ湖のほとりにあるので、水は豊富だったようですが、当初は本当に貧しく、服さえ着まわしていたそうです。
こちらのキブツではシェルターにも入れていただきました。キブツ内に十数箇所のシェルターがあり、いつでも使えるようになっています。
今でこそ大きな戦争はないですが、中東戦争の時はシリアの戦車相手に火炎瓶で戦い、追い返したこともあり、戦いという概念は今でも年配の皆さんにはしっかり根付いているようでした。
キブツの資料館は、戦争などで亡くなった方の写真が飾られており、国や共同体のために戦った人へのリスペクトを感じましたし、ホロコーストのメモリアルも飾られていました。
キブツには保育園から高校までがありましたが、大学はないため子供たちはキブツを出て行くようですが、そこは自由で子供たちがなりたい自分になれるように教育をしているとのことでした。
最近はキブツを出た若者が返ってくる傾向にあるようです。
ガイドをしてくださった72歳の男性は、我々があまりに熱心に視察し質問するので驚いていらっしゃいました。
質問でキブツのメンバーになるにはどうしたらいいかを聞くと、評議会に申請をあげてもらい、審査が通れば一年間の試験採用で、一年後の再審査で合格するとキブツのメンバーになれるとのこと。
キブツにはメンバーとメンバー以外の住人がいて、メンバー以外の人も暮らせます。
また子供もメンバーにはカウントされません。
簡単には共同体メンバーにはなれないのです。
またキブツ内のルールは全てメンバーの投票で決めていきます。
同じ共産主義といっても中国共産党とは違うよ、とガイドの方が笑って話しておられました。
〔サデエリアフ〕
三箇所目のキブツは、1939年にドイツ人によって開かれました。
こちらのガイドの方が強くおっしゃっていたのは、キブツの中の調和とバランス。
町の中心に食堂や娯楽施設、病院といった物理的に必要なものと、シナゴーグのように精神的に必要なものを配置し、託児所や介護施設も併設して、全ての世代が交流できるように設計しているとのことでした。
また、ガイドの方はなぜイスラエルに来たんだと聞かれたので、
「イスラエルの歴史や国を守り維持していくという大目標に基づいた社会システムを学びにきました」と答えると、
「私たちはずっと防衛のことを考えてるよ」とおっしゃってました。
後半はキブツの農業について説明いただきました。
イスラエルのキブツでは砂漠が多いため、ビニールハウスで野菜をつくります。かつては農薬も使っていたそうですが、虫も耐性を高めていくため農薬がどんどん大量に必要となります。
それは当然人間にも害になるので、農薬を使わない農業を考えました。
その一つが作物に害のない虫を育てて、害虫を食べさせるという農法です。
作った虫は餌の害虫がいなくなると死んでしまうそうです。
また、農作物の受粉をさせるのに、人力ではコストがかかり過ぎるので、バイオ蜂を作って少数の蜂に受粉をさせると共に害虫の駆除もさせるそうです。
またこの蜂や虫は商品にもなっていて、他の農場やキブツに売ってビジネスにもしているとのこと。
キブツ内の農場なども回らせていただきましたが、かなり広大でした。
農場のすぐ横に住居があり、それを指して「この近さで農薬使ったらまずいってわかるだろ」とおっしゃってました。
また、牛や鳥の鶏舎には、太陽光パネルが取り付けられており、キブツの電気の3分の1はこれでまかない、他にも風力発電もやり、なるべく再生エネルギーで自給自足したいとのこと。
200人のメンバーと500人の住人でこれだけの事業規模なら、メンバーはかなりリッチなのでは?と感じました。
こちらのキブツは完全な平等分配をしているそうで、医師も弁護士も調理師もみんな同じ給料で生活しているようです。
今回は3つのキブツを訪問し、その歴史から学びましたが、開拓当初はもの凄い苦労だったんですね。北海道開拓なみだと感じました。
キブツは単なる農業共同体ではなく、戦略的入植の拠点であり、戦争時は皆が一丸となって戦い、勝ち取った場でもあり、またイスラエルの自給自足を支える生産地でもあるんですね。
初代首相のベングリオンが、晩年若者たちにキブツの開拓精神を忘れるなと語った意味がよくわかりました。
将来学校をもつ共同体をつくりたいと考えていますが、生半可な覚悟ではできないことだという認識をもてたキブツ視察でした。