今日は、ロバート・D・エルドリッヂ博士を講師にお招きし、
【サンフランシスコ平和条約締結の過程で沖縄の処理がどう議論されていたか】
についての研修会を開催しました。
まず、正直にいって私もここは盲点で、全く考えたことはありませんでした。
沖縄は地政学的にも重要な土地ですから、アメリカは当然に支配下におきたかったのだろうと思い込んでいたのです。
しかし、今回の研修でアメリカの中にも多様な意見があったことや、日本の政府や天皇陛下も必死で沖縄を分離させないようにしようとしていた史実を知りました。
アメリカ側の意見をみると、
軍部は何が何でも沖縄の占領を継続し基地をおくべきと考えていた、
マッカーサーは沖縄を日本から分離はするが、基地は不要と当初考えていた、
国務省は、「太平洋憲章」の領土不拡大の原則を踏襲し、沖縄を分離せず、日本に返す方針であった、
といったものがありました。
日本側は、
1945年の11月には講和条約の研究会を立ち上げ、沖縄を如何に返還してもらうかを考えていたが、相手はアメリカだけでなく、連合国の国々で、ソ連などは日本の分割を考えていたので、そことのバランスを図りながら、案を考えていた
天皇陛下も「天皇メッセージ」と呼ばれる意見で以下のことを米国側に伝えようとされていた。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
(1)だけをみて、【沖縄切捨て論】という意見もあることは知っていましたが、
そもそも、沖縄への主権を主権を認めないという意見に対してのメッセージですから、
主権は日本にあるが貸してあげる、安全保障上の問題があるので、米軍には残って欲しいといっているので、やはり背景を知ると全く切捨てなどではないことが分かりました。
こうした日米間の様々思惑がある中、アメリカのジョージ・ケナンがアメリカ政府内の沖縄政策をまとめ、
国務長官のダレスが、連合国の要望などを調整しながらサンフランシスコ講和条約締結に至ります。
結果はご存知のように、返還はかなわないものの、「潜在的主権」を認めさせ、20年後の復帰に繋げたのです。
天皇メッセージも吉田総理も、基地の使用は認めるから施政権は日本に戻せというラインで沖縄を繋ぎとめようとしたわけですが、サンフランシスコ講和条約ではそこまで至らなかったのですね。
エルドリッヂ氏は個人的な見解として、
1952年に沖縄を返還しておくべきだったと述べられました。
そうすれば、本土と沖縄は、共通の戦後史を持つことができ、今のような相互不信の関係にはならなかっただろうし、
沖縄の経済成長ももっと進んだかもしれない、さらにいえば、1952年に沖縄を取り返していたら、日本はもっと主体的に自国の防衛を考えただろうと。
歴史に「IF」はないんですが、こうしてしっかり経緯を聞くと、考えさせられることがたくさんあります。
政治を考える上で、過去の史実を学んでおくことの大切さを再認識しました。
今日のテーマに関連するエルドリッヂさんの書籍です。