二日目は、慶長の役の際につくられた順天城跡の見学からスタート。

小西行長がまとめる日本軍において
宇喜多秀家や藤堂高虎らによってわずか2~3ヶ月で作られた城です。
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半島に城を作っていたのは知ってましたが、東京ドーム5つ分もある規模の城があったとは今日まで知りませんでした。
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日本100名城を90ほど回った私から見ても、国内にあれば100名城に並ぶ規模です。佐賀の名護屋城に似た感じです。

わずかな期間でこの規模の城をつくるとは、当時の日本の国力に驚くとともに秀吉の朝鮮出兵がただの思いつきではなく、大きなミッションがあったのだと推察されます。

この城は1598年に明と李氏朝鮮の連合軍4万に攻めらていますが、14000人で日本軍が打ち払っています。
その後秀吉の死による撤退の際は、講和条約を結んだにも関わらず、朝鮮の李舜臣らが小西行長らを追撃。しかし、島津らの援軍により小西行長らは無事に帰国、李舜臣はこの戦いで戦死しています。

一つの場所から学べる歴史は大きいですね。想像がふくらみます。
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続いては順天湾の生態公園。世界五大沿岸湿地だそうです。
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次は14世紀に建設された楽安邑城に。
たくさんの歴史建造物が残っていて、韓流ドラマのロケ地でも有名だそうです。
「チャングムの誓い」が有名だとのことですが、私が見てないので、残念ながらわかりません。
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次には朝鮮の独立運動家、金九の潜伏地に。
1949年に李承晩との権力闘争で殺された政治家なのですが、、正直今日まで私も知りませんでした。
3.1独立運動などの歴史も改めて振り返る機会をもらいました。
韓国の歴史ももう少し知らないといけませんね。
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次は宝城のお茶畑に。こちらも韓流ドラマ、夏の香りのロケ地ということで、たくさんの観光客がこられていました。
私は冬のソナタしか知りません(>_<)

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最後は王仁博士の記念遺跡に。

王仁(わに、生没年不詳)は、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物です。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。

実在は疑問視されていて、儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする説や、その姓から見て高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者とする説もあるそうです。
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施設は立派なもので完全に実在の人物になっていましたf^_^;
日本書記や古事記まで並べられており、枚方にある王仁のお墓の写真などもたくさんありました。
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日本語の解説もあったのですが、要は日本の飛鳥時代の文化は全て半島からもたらされたものだということを伝えたいようです。

天皇陛下の写真やコメントもあり、皇室に百済系の血が入っていることを天皇陛下も認めたというニュアンスのことが書いてありました。

確かに文献をみるといろいろ書いてありますが、、、今の半島の人々は直接の百済や新羅の子孫ではないはずなんですが、、
そんな記述はありませんでしたし、百済に大和から人が入っていたという話もありません。

いろいろな資料を読むと、日本の大和時代に半島の力がそれほどあったようには思えませんが、、。
とにかく切り取って大々的な施設などをつくると正しいことのように感じます。

韓国の方々がアイデンティティを育むために偉人の教育に力を入れている様子がよくわかりました。
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余談ですが、歴史建造物の展示にはこんなものもありました。

日本ではやらない展示ですね。