下記の記事を書いた記者の方はいいところをついています。

おそらくこのあたりが落としどころでしょう。


塾はうまくいかないし、政党の看板は必要です。


維新の会の人気も利用し、国を建てなおすにはこうした戦法がいいと思います。

ただ、政策的なものはしっかりした方に作って頂き、

会のトップにはぶれないリーダーをもってこないと人材が集まりません。



神様が日本を見捨てないなら、こうした形ができるでしょう。


1月29日の私のHPより
以上の分析からみると、現状では、、維新の会、みんなの党、 石原新党に前原氏のグループあたりがくっついてできる政党があれば、それが一番いいのかも知れません。
つまり、大きなビジョンを石原氏や平沼氏あたりの重鎮が描き、橋下氏がスポークスマンになって国民の意識啓発を行い、 実務は前原グループやみんな党の政治経験者が行うという形です。
こうした政党が力をもちながら自民党と連立していけば、旧体制の破壊が上手くいくかもしれません。


最近は自民党自体もぐらつき始めたので、少し状況は変わりましたが、

上記の基本的な形でいくしかないと私は考えています。



2012.4.29 18:00 産経ニュース

 大阪市の橋下徹市長率いる「大阪維新の会」が次期衆院選にいかなる戦略で臨むのか、中央政界では、このうえない関心をもっているし、あれやこれやと維新の会の出方を予測している。おぼろげながらここにきて、やはりそうか、と合点がいったのは、他党と選挙協力はしても、維新の会の「看板」を前面に出して戦う方針であるらしいということである。
(松本浩史)
維新、大阪以外では勝てない!?
 維新の会をめぐっては、第三極を構築する際の連携相手と目されるみんなの党やら、東京都の石原慎太郎知事がもくろむ新党などと合流するのかどうか、憶測を呼んでいた。「大阪以外の地域で『大阪維新の会の公認候補です』と演説しても有権者に受け入れられない」(関係者)との懸念がついて回り、「第三極新党」に橋下氏が参加すれば、全国区の政党になり得るとの見方があったためだ。
 ところが、看板をすげ替えたら橋下氏のみならず、維新の会の人気も色あせかねないとの危惧が増幅し、今のところ、維新の会単独で次期衆院選に挑む方向が強まったというわけだ。
 その前さばきの試みとして、関係者の間で練られている構想の一つが、公職選挙法や政党助成法などの要件を満たす政党として、民主党にせよ自民党にせよ、維新の会の人気を頼りに離党した現職の国会議員により、新「維新の会」を立ち上げようというものだ。地域政党である維新の会は現在、国会議員を有していない。
既成政党の党首を、なで切りか
 公職選挙法などでは、政党の定義として「政治団体のうち、所属する国会議員(衆院議員または参院議員)を5人以上有する」などと明記されている。すでに大阪府のほか、東京都などでも参加が取り沙汰されている国会議員が複数いるという。
 関係者の一人によると、この構想が実現する効用は小さくない。例えば、テレビ各社の討論番組に参加できるようになる。党首クラスがそろう企画番組となれば、新「維新の会」代表にも橋下氏が就任するのだろうから、やり取りを通し、既成政党の党首クラスをなで切りするような場面が放映される可能性もある。
 橋下氏が理路整然と、弁舌さわやかに、ときどきの政策テーマを論じ、既成政党からの出演者が歯に物が詰まった言い方に終始すれば、視聴者がどういう印象を持つかは自明のことであり、国民の期待値がますます高まるのは請け合いである。
 そのほか、政党となれば、政見放送に出演できるし、選挙区と比例代表との重複立候補も可能となる。いろいろと享受できるメリットがあるわけだ。
全包囲外交に成功か、不義理に終わるか
 こうした動きが出た背景には、次期衆院選の候補を養成するため、鳴りもの入りでスタートした「維新政治塾」には、政治への夢やら希望やらを抱いていても、政治経験の豊富な人材がいるわけでなく、これとは別に「実のある動き」として、現実的な戦略も同時並行して推進すべきだとの判断があったとされる。
 関東地方の一部地域では、維新の会の支部創設に向けた取り組みも水面下で進んでいるという。「大阪維新の会●●支部」として、選挙活動を進める狙いがある。いずれにしても、維新の会の看板を選挙戦に生かす戦略であるのは変わりがない。
 ところで当の橋下氏は、このところ頻繁に東京に出向き、関西電力大飯原発3、4号機の再稼働問題で藤村修官房長官と会談したほかに、非公式ながら安倍晋三元首相と会うなど政局向けの活動も目につく。
 あっちにああ言い、こっちにこう言いのかみ分けが実にうまい政治家だと思う一方、ある脈絡があってこうした動きをしているのかどうか、見極めづらいところがある。別のある関係者によれば、「橋下氏は、政策分野ごとに連携相手を模索する人だ」という。だとすれば、こうした一連の活動がいつか収拾しきれず、各方面に不義理をしてしまいかねないのではと、懸念するのである。