アメリカ史を専攻していた私は、学生時代から佐伯先生の著書を読んできました。
かなり私の思考パターンに影響を与えてくださった先生です。
今の勢いで日本の政治がすすめば、
次はどうなるか?
場当たり的なポピュリズムでは駄目なんです。
十日ほど前に週刊誌に私のコメントが載りました。
目新しいことではなく、ブログやホームページでもずっと書いてきたことです。
橋下氏の発信力や突破力には私も期待する一人です。
しかし、進め方やチーム造りがまずい。
そこは二年前からご本人にも直接指摘しているところです。
だいぶ修正はされてきていると思いますが、今のままではかなり危うい。
だから、嫌われたり罵倒されたりするのが分かっていて、あえて声をあげています。
私個人の政治的な損得、好き嫌いで発言するのではありません。
そうならもっと前から言っています。
大阪のダブル選挙が終わってから、
これはまずいぞ、と予期するから敢えていうのです。
私は歴史が大好きです。
ですからいつも歴史の偉人や
歴史の事件に照らして考えるのです。
龍馬プロジェクトを三年前に始めたのも、必ず今のような政治情勢になると予期していたからです。
尊敬する先生も同じような危惧を感じておられるとわかり、
少し嬉しい気持ちです。
温故知新。
政治家には、政策以上に哲学や歴史観が必要だと思います。
だから我々は龍馬プロジェクトで若く思いある若者を集め、
研修を続けているわけです。
選挙に勝つことや
ハコモノを作ることが
政治家の実績ではない。
破壊と創造。意識改革。
場当たり的なものは長続きしません。
「パンとサーカス」によった国民が、
「しまった」と思う前に
予防線をはるのが我々政治家の務めだと考えています。
維新の会の内部にもちゃんと見えている人がいらっしゃるはずなんですが、、、、。
以下引用
ーーーーーーーーーーーーーーー
【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 「維新の会ブーム」の危うさ
2012.2.20 03:16 産経ニュース
大阪維新の会が国政に打って出ようとしている。維新塾にも3千人以上の応募者が殺到し、来るべき総選挙には300人の候補者をたてる、とも言われている。まさしく「維新の会」ブームであり、今後の政治の焦点になる。このブームが続けば、次回の総選挙では自民、民主ともに過半数を取れず、大躍進の維新の会との連立のあげく、事実上、維新の会の政策を丸のみなどという事態も十分に考えられる。
国政に参加する場合の公約である「維新八策」として、首相公選、参議院の廃止、道州制の導入、脱原発、TPP参加などを唱えており、上のような事態になれば、刷新といえば刷新であるが、大混乱といえば大混乱になりかねない。
確かに今日の日本を覆う閉塞(へいそく)感と、自民、民主の「二大政党政治」への強い失望を前提にすれば、ともかくも行動力が売り物の維新の会への高い期待もわからないではない。既成のシステムへの攻撃や破壊的なエネルギーが「何か」を期待させることも事実である。
しかし、それは「何」であろうか。何を期待させるのであろうか。その「何か」は私にはよくわからない。よくわからない以上、私は維新の会には大きな危惧の念を抱かざるを得ない。それは原則的なものである。
維新の会の政策は、脱原発のように昨年の事態を受けたものは別として、基本的には1990年代以来の「改革論」の延長上にある。いや、それをもっと徹底したものである。経済的にはグローバル化、市場競争主義、短期的な成果主義、能力主義という新自由主義路線への傾斜であり、政治的には、脱官僚化、強力な政治的リーダーシップ、地方分権、財政再建であり、これらは、この十数年の「改革論」そのものである。首相公選なども議論として目新しいものではない。
したがって、「構造改革」であれ「政治改革」であれ「行財政改革」であれ、「改革論」を支持したものは維新の会に反対する理由がない。しかも、90年代から2000年代へかけて、実は、自民党も、これに対立する民主党も基本的に「改革派」であった。いや、正面から「改革」への警戒など説いた政治的勢力などほんのわずかしかなかった。
だから話はこうなる。今日の日本の閉塞感は、自民にせよ民主にせよ、「改革」が十分に達成されなかった点にある。かくて、既成政党にはない斬新なエネルギーをもった平成の坂本龍馬たちならば一気に「改革」を実現できる、というわけだ。
しかし考えていただきたい。この十数年の「改革」は何をもたらしたのだろうか。グローバル化のおかげで、日本経済は米中の景気に大きく左右され、国際金融市場や商品市場での資本の投機に翻弄され、個人主義的な市場競争化のおかげで地域格差や所得格差が開き、雇用の不安定をもたらした。
そして、政治改革は、確かに小選挙区によって二大政党制を生み、マニフェスト選挙を可能とした。それで政治はどうなったのか。この帰結が民主党政治であった。政治そのものが著しく不安定化し、マニフェストはほとんど無意味であることが判明した。
◇
二大政党政治は、選挙のたびに移り変わる民意を反映して衆参のねじれを生みだした。そもそも民主党の失敗の最大の原因は、脱官僚主義、政治主導にあり、いってみれば、にわか作りの素人集団による政治の貧困ということに落ちついたのではなかったろうか。
維新の会への期待は素人集団による、あるいはそれゆえの爆発力への期待である。それは未知であるがゆえの期待である。ここで「素人」というのは別に政策論がないという意味ではない。従来の政党政治においては、党内実績や地元との交流、人間相互の信頼関係の醸成、官僚との調整など時間をかけた積み上げが必要とみなされていた。このプロセスをすべて省略して政治主導による合理的解法を見いだせるとする政治をここでは「素人政治」というのである。
しかし、これは言いがかりではない。もしも維新の会が本当に「何か」を成し遂げて日本を動かせばそれは結構なことである。維新の会に私は何の恨みもない。だが私が気になるのは、この十数年の「改革」が何をもたらしたのか、そのことを少し踏まえれば、この急進的改革派に対して強い警戒が先立つのが当然ではないのか、ということだ。さもなければ、この数年の、雇用不安、金融不安、地域の不安、医療などの不安などはいったい何だったのか。民主党の失敗は何だったというのか。ただの錯覚だったというのだろうか。
結局のところ、十数年にわたる「改革」についての功罪がいまだに整理されていないのだ。すべてがうやむやに進行していくのである。グローバル化の功罪、金融自由化の功罪、日本的経営の崩壊の意味、二大政党政治の功罪、小選挙区制やマニフェストの問題、これらの問題を、自民も民主も整理できていない。むろん、マスメディアやジャーナリズムとて同様である。
この間隙(かんげき)をついて、明治の「革命」を想起させるような「維新革命」が「民意」をえる。フランス革命において、ジャコバン派が一気に勢力を拡張したのは、あらゆる党派が権力抗争に消耗しているときに、権力の空白を縫って、ただ「民衆の友」というスローガンを掲げたジャコバン派に誰もが反対できなくなったからだ、といわれている。むろん、時代も状況も違うがそうなってからでは遅いのだ。(さえき けいし)
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かなり私の思考パターンに影響を与えてくださった先生です。
今の勢いで日本の政治がすすめば、
次はどうなるか?
場当たり的なポピュリズムでは駄目なんです。
十日ほど前に週刊誌に私のコメントが載りました。
目新しいことではなく、ブログやホームページでもずっと書いてきたことです。
橋下氏の発信力や突破力には私も期待する一人です。
しかし、進め方やチーム造りがまずい。
そこは二年前からご本人にも直接指摘しているところです。
だいぶ修正はされてきていると思いますが、今のままではかなり危うい。
だから、嫌われたり罵倒されたりするのが分かっていて、あえて声をあげています。
私個人の政治的な損得、好き嫌いで発言するのではありません。
そうならもっと前から言っています。
大阪のダブル選挙が終わってから、
これはまずいぞ、と予期するから敢えていうのです。
私は歴史が大好きです。
ですからいつも歴史の偉人や
歴史の事件に照らして考えるのです。
龍馬プロジェクトを三年前に始めたのも、必ず今のような政治情勢になると予期していたからです。
尊敬する先生も同じような危惧を感じておられるとわかり、
少し嬉しい気持ちです。
温故知新。
政治家には、政策以上に哲学や歴史観が必要だと思います。
だから我々は龍馬プロジェクトで若く思いある若者を集め、
研修を続けているわけです。
選挙に勝つことや
ハコモノを作ることが
政治家の実績ではない。
破壊と創造。意識改革。
場当たり的なものは長続きしません。
「パンとサーカス」によった国民が、
「しまった」と思う前に
予防線をはるのが我々政治家の務めだと考えています。
維新の会の内部にもちゃんと見えている人がいらっしゃるはずなんですが、、、、。
以下引用
ーーーーーーーーーーーーーーー
【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 「維新の会ブーム」の危うさ
2012.2.20 03:16 産経ニュース
大阪維新の会が国政に打って出ようとしている。維新塾にも3千人以上の応募者が殺到し、来るべき総選挙には300人の候補者をたてる、とも言われている。まさしく「維新の会」ブームであり、今後の政治の焦点になる。このブームが続けば、次回の総選挙では自民、民主ともに過半数を取れず、大躍進の維新の会との連立のあげく、事実上、維新の会の政策を丸のみなどという事態も十分に考えられる。
国政に参加する場合の公約である「維新八策」として、首相公選、参議院の廃止、道州制の導入、脱原発、TPP参加などを唱えており、上のような事態になれば、刷新といえば刷新であるが、大混乱といえば大混乱になりかねない。
確かに今日の日本を覆う閉塞(へいそく)感と、自民、民主の「二大政党政治」への強い失望を前提にすれば、ともかくも行動力が売り物の維新の会への高い期待もわからないではない。既成のシステムへの攻撃や破壊的なエネルギーが「何か」を期待させることも事実である。
しかし、それは「何」であろうか。何を期待させるのであろうか。その「何か」は私にはよくわからない。よくわからない以上、私は維新の会には大きな危惧の念を抱かざるを得ない。それは原則的なものである。
維新の会の政策は、脱原発のように昨年の事態を受けたものは別として、基本的には1990年代以来の「改革論」の延長上にある。いや、それをもっと徹底したものである。経済的にはグローバル化、市場競争主義、短期的な成果主義、能力主義という新自由主義路線への傾斜であり、政治的には、脱官僚化、強力な政治的リーダーシップ、地方分権、財政再建であり、これらは、この十数年の「改革論」そのものである。首相公選なども議論として目新しいものではない。
したがって、「構造改革」であれ「政治改革」であれ「行財政改革」であれ、「改革論」を支持したものは維新の会に反対する理由がない。しかも、90年代から2000年代へかけて、実は、自民党も、これに対立する民主党も基本的に「改革派」であった。いや、正面から「改革」への警戒など説いた政治的勢力などほんのわずかしかなかった。
だから話はこうなる。今日の日本の閉塞感は、自民にせよ民主にせよ、「改革」が十分に達成されなかった点にある。かくて、既成政党にはない斬新なエネルギーをもった平成の坂本龍馬たちならば一気に「改革」を実現できる、というわけだ。
しかし考えていただきたい。この十数年の「改革」は何をもたらしたのだろうか。グローバル化のおかげで、日本経済は米中の景気に大きく左右され、国際金融市場や商品市場での資本の投機に翻弄され、個人主義的な市場競争化のおかげで地域格差や所得格差が開き、雇用の不安定をもたらした。
そして、政治改革は、確かに小選挙区によって二大政党制を生み、マニフェスト選挙を可能とした。それで政治はどうなったのか。この帰結が民主党政治であった。政治そのものが著しく不安定化し、マニフェストはほとんど無意味であることが判明した。
◇
二大政党政治は、選挙のたびに移り変わる民意を反映して衆参のねじれを生みだした。そもそも民主党の失敗の最大の原因は、脱官僚主義、政治主導にあり、いってみれば、にわか作りの素人集団による政治の貧困ということに落ちついたのではなかったろうか。
維新の会への期待は素人集団による、あるいはそれゆえの爆発力への期待である。それは未知であるがゆえの期待である。ここで「素人」というのは別に政策論がないという意味ではない。従来の政党政治においては、党内実績や地元との交流、人間相互の信頼関係の醸成、官僚との調整など時間をかけた積み上げが必要とみなされていた。このプロセスをすべて省略して政治主導による合理的解法を見いだせるとする政治をここでは「素人政治」というのである。
しかし、これは言いがかりではない。もしも維新の会が本当に「何か」を成し遂げて日本を動かせばそれは結構なことである。維新の会に私は何の恨みもない。だが私が気になるのは、この十数年の「改革」が何をもたらしたのか、そのことを少し踏まえれば、この急進的改革派に対して強い警戒が先立つのが当然ではないのか、ということだ。さもなければ、この数年の、雇用不安、金融不安、地域の不安、医療などの不安などはいったい何だったのか。民主党の失敗は何だったというのか。ただの錯覚だったというのだろうか。
結局のところ、十数年にわたる「改革」についての功罪がいまだに整理されていないのだ。すべてがうやむやに進行していくのである。グローバル化の功罪、金融自由化の功罪、日本的経営の崩壊の意味、二大政党政治の功罪、小選挙区制やマニフェストの問題、これらの問題を、自民も民主も整理できていない。むろん、マスメディアやジャーナリズムとて同様である。
この間隙(かんげき)をついて、明治の「革命」を想起させるような「維新革命」が「民意」をえる。フランス革命において、ジャコバン派が一気に勢力を拡張したのは、あらゆる党派が権力抗争に消耗しているときに、権力の空白を縫って、ただ「民衆の友」というスローガンを掲げたジャコバン派に誰もが反対できなくなったからだ、といわれている。むろん、時代も状況も違うがそうなってからでは遅いのだ。(さえき けいし)
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