旅行記。
年末年始はインドへ。
お盆のラオスに続き、海外二ヶ国目。
そもそも旅の目的は、開発国に自分の心が動くから。
おそらく28歳辺りから、自分の人生の舵を切り直す。本格的に、開発国と関わる気がしている。
ただ、それは単なる興味本位なだけかもしれない。
だから、もっと深く関わる。旅は大事な材料になる。
(平たく言えば、自分の世界を拡げたい)
それで、今回は大陸の異なるアフリカか南米の開発国行きたかったものの、お金が無く断念🙅♂
近場、開発国、仏教以外(ラオスは仏教国)、で絞り、インド行きを決めた。
ただこのインド、学びは色々とあったものの、
なかなかハードな旅となった。。
※下記、出来事、思う事をあらかた記す。長め。
12/30 1日目(日本→コルカタ)
10時より、関西空港にて出国。
目指すはインド東部のコルカタ。
問題なく進んだものの、やはり今回もラオス同様トリップブルーが訪れていた。
楽しみではあったのだけど、いざ当日になると不安と緊張が押し寄せる。
「航空券以外特に準備してない」「インドの犬に噛まれたら死ぬ」「海外まだ2回目」
こんな所かな。
まあ、慣れの問題でもあるし、自分の性格でもある。
時刻は0時。コルカタ着。約14時間、乗り継ぎ2回。
ここまでは予定通りだったものの、アライバルビザの取得に手こずる。
インドでは有難い事に、世界で唯一日本人だけビザの事前取得が必要無い。到着と同時に軽い手続きを行えばアライバルビザが手に入り、入国できる。
ただ、例が少ないだけに誰も手続きのやり方が分からず、結構たらい回しにされた。
この辺りの仕事振りはインド人っぽいのかなー、とか
マリオ(丸顔で上髭もっさり)がたくさんいるなー、とか思いながら待っていた。
無事完了したのが深夜2時。
ここから、市内の宿へ。インドは治安は良いものの、夜はやはり気を付けろ、との前情報があったので少し怖かった。
ただ、空港で手配するタクシーは多少ぼるくらいなのだそう。前払い制なので300ルピーを支払ってタクシーに乗り込むと、「深夜料金は特別なんだ」みたいな事を言われ、「700ルピー支払え」と金を要求してきた。
「さっき支払ったわ!」と何度言っても凄い剣幕で全く譲りそうにない。
「じゃあ、700-300の400でええか」と言ったらグーポーズを見せたのでGO。
多少苛つきながらも、宿までの道中に街を見渡すと、貧しさのレベルが想像を超えていた。
ラオスよりも圧倒的に汚くてボロい。
日本の街並みとの違いの大きさに驚き、自分の生活が如何に裕福なのか思い知らされる。
これほどの違いであれば、多少ぼられたっていいじゃないか。
先進国から開発国にもっとお金を落とすべきなんだ。あまりにも不公平過ぎないか。
むしろ、ぼったくられるべきなんだ、そんな気持ちになってきた。
しかし、そう思ったのも束の間、到着したら「おい、700ルピー寄越せ」と言ってきた。
「400言うてたやん、支払うか!」と話しても「何のことや」と。
コイツ、、と思ったけどこの時間(深夜3時)に喧嘩するのも辛かった。
根負けして支払ったら、今までの剣幕が嘘のように晴れやかな笑顔に。
インドでは、こういう事がよく起きた。
まあ、そのあと実は宿の門が鎖で閉まっていて、開けてもらうのを助けてくれたから良かったのかな。
12/31 2日目(コルカタ)
コルカタには、マザーハウスがある。
そこでボランティア体験が出来るらしく、何としても参加したかった。
(マザーテレサの本を読み、その人間性に感動した)
朝7時スタートという強行軍。何とか起きて無事到着。
参加者は欧米人が8割ほどを占めていて、朝7時〜8時はみんなで朝食を食べる。
英語がほぼ話せないので、なかなか会話に入れなかったのだけど、たまたま日本語を話せる欧米人と出会った。
彼は17歳のアイルランド人。東京が出生で、10歳の時、東日本大震災を機に父母の故郷アイルランドへ。
今はオーストラリアの高校へ交換留学しており、授業の一環としてマザーハウスのボランティアへ来ているそうだ。現在3週間目。
聞けば、高校生が多く参加者の6割程度は授業で来ていた。
中学高校の多感な時期にインドのマザーハウス。いや~、素晴らしい。
8時からは5つのコースにそれぞれ別れてボランティア開始。
死を待つ人たちが暮らす場所
孤児が暮らす場所
問題を抱えた女性が暮らす場所
様々あり、僕は10歳以下の障害をもった子供達が暮らす場所(ダヤダン)へ。
ダヤダンでその日初めてボランティアに参加するのは僕含めて4人。
偶然にも同じ日本人で、30~40代夫婦とその子供(高校2年生の女の子)と一緒だった。
そのお父さんは化学系エンジニアとしてインドに何度も主張で来ていて、母娘はインド初。
娘に貴重な経験をさせたい、と話されていた。
その女の子は「インドが刺激的過ぎる」「もう帰りたい、、」と冗談混じりに話していたけど、高校生の日本人がインドに触れるのは本当に意味のある事だと思う。きっと良い経験になっただろう。
実際にボランティアとしてやった事は、
大量の洗濯、屋上での干し、食事補助、子供との遊び を4時間ほど。
正直、障害をもつ子供へのコミュニケーションはとても難しかった。出来る事を探してやっていたのだけど、少しは役に立っていたのだろうか。。本当は彼らのように3週間など中長期でやった方がいい。ただ今回は時間も限られているので1日のみでお願いをした。感謝。
印象的だったのは、シスターの表情。
彼女たちは家元を離れ、マザーハウスで生活をしている(ちなみにマザーハウスは世界中からの寄付から成り立っている)
マザーの意志とキリストの教えを忠実に守り、インドの貧しい人たちへ生活する場所と愛を与え続けているのだけど、流石に優しさに満ちた表情だった。
言葉は分からなくとも、伝わる。
何十年も行いを続けたからこそ、滲み出てくるもの。
今でもすぐに思い出せる。この表情を見れただけでも、来て良かったなあと。
その後は、日本人家族の方々とご飯をご一緒させてもらって解散。
この時、一つ気づく。
・・・辛いのが苦手。
僕は今でもCoCo壱で甘口を頼むほど辛さに弱い。だから、レストランではスパゲティを頼んだのだけど、それが物凄く辛かった。
あ、そういえばここインドだった・・・。
旅中、ずっと苦しめられる事になった。これは辛くないやろー、と思うものでさえ凄く辛い。
サブウェイも、屋台のパンも、レストランのスープも。何から何まで辛いのがインド。もう嫌だ。
食事を終えた後は、コルカタのもう一つの目的地、ソナガチ地区へ。
ここは(ネット上で)世界最悪の売春街と言われている。
幼い少女が売られていたり、前情報では相当にヤバい場所らしい。
雰囲気も異様だというので、その空気感に触れてみたくて散策してみた。
ソナガチ地区を探していると、これまた珍しく、日本語が流暢なインド人のSadamと出会い、「ソナガチか!俺が連れて行ってやるよ!」と案内してくれることになった。
実際に回ってみると、相当覚悟をしていたのだけど、
普通の街で思わず拍子抜けをしてしまった。
Sadamがいくつかの店の中へ連れて行ってくれたんだけど、特別変な空気は感じない。
ただ2時間で18,000ルピーだ、と言われたのは驚いた。
これは日本円で30,000円を超える。
インドの1人当たりのGDPは1939ドル(2017年)と日本の約20分の1。
聞けば、地元のインド人もよく行くという。
インドでは年収1,000万円を超える人も日本人以上に多くいるらしい。
ただ一方で、貧しい人が膨大な数になる。
インドでは何度も感じる貧富の差をこんな所でも感じた。
多分、案内してくれた所は高めなエリアでもっと激安なエリアもあるのだろうと思う。
散策後は、飛行機でバラナシへ。
ガンジス河で年越しを!!と思っていたものの、まさかの飛行機に乗り遅れてしまった…。
行きの空港から宿まで30分程度だっただけど、
帰りは混雑時間らしく、90分以上も掛かってしまいギリギリ間に合わず。。
3倍は予想していなかった。。
どうしようかなー、と思っていたら、夜行列車があるらしく、それに乗っていくことに決めた。
Sadamの友達が予約してくれて、夜はその友達とイギリス人70歳のご老人も一緒になってご飯を食べた。
ただここから乗るまでが大変で、ざっくり言うと、お金の事で結構な喧嘩になった。
詳しくはもう書かないけど、すげえ嫌な気持ちでコルカタを去った。
こちらの無知もあったのだろう。もっとハッキリ断るべきだった。
インドは“人の森”と言われているのだけど、
まさか滞在初日でこんな人間関係でゴタゴタになるとはなあ。。
1/1 3日目(コルカタ→デリー)
年越しガンジス河!は間に合わなかったけど、朝には到着した。
・・・と思ったら、寝過ごしてしまった。
引き返せる距離だったのだけど、引き返すのは旅じゃないな、と思ってそのままGO。
※正直に言うと、昨日Sadamが「ガンジス河なんて河しかない!あんな所に行って何になるんだ!」と言っていたのが癪に障り、もうガンジス河行かねえ、と拗ねた。
確かにSadamの言う事も分かる。観光地化した地域に本物のインドは見えにくい。だから、バラナシをスルーして、ここからは地球の歩き方にも載っていないような適当な街へ行く事にした。
だけど問題が発生する。
あまりにも小さい町は宿が無いだろうから、中規模クラスを狙っていて、アラハバードという街に行こうとしたのだけど
・・・またしても寝過ごしてしまった。
まあええかと気を取り直して、取り敢えずカーンプルというある程度中規模クラスを目指すことにした。
ただ、カーンプルまであと250㎞ほどある。
実は、バラナシからは無賃乗車だったので、切符切りのスタッフが来ないか?次の予約客が来ないか?ずっと冷や冷やしていた。途中の駅に着くたびに、次の予約客が来ない事を祈っていた。
結果は、カーンプルより50㎞ほど前のファテプルという街で予約客が来て、「おい、俺の席だ」と言われ下車。
これも何かの縁だから、と思ってファテプルで一泊しようとしたけど、流石に止めておいた。
家は土壁で宿やレストランは見当たらない。変なものを食べてダウン。旅行終わる、、、が目に見えていた。
いつかはインドの超田舎泊のようなリスキーな冒険もやってみたいけど、会社に所属していないときに挑戦をしようと思う。
ここからカーンプルへ行き、首都のデリーへ夜行列車で行く事にした。
最初のコルカタ以外、目的地は決めていなかったのだけど、途中から無性にパキスタンの近くの街(アムリトサル)に行きたくなった。
※アムリトサルは、デリーから飛行機で行ける。
カーンプルには到着したものの、夜行列車を買うのが大変だった。
インドの夜行列車はいくつかクラスがあって、無賃でギュウギュウ詰めになって乗れるクラスもあれば、横になって寝れるクラスもある。
ちゃんと寝れるクラスを予約したつもりが、うまく出来なくて、最低レベルの乗車券を手に入れてしまったようだ。
でも、誰に尋ねても券の買い方が分からないので、またしても無賃乗車することに。
空いている席を見つけて、こっそり寝る事にした。
しかし、そんなうまくいくはずもなく、列車が走ってから切符切りのスタッフに「お前なんでここにいる」と声を掛けられてしまう。
「買い方がわからなかった。お金は払うからここで寝たい」と図々しくお願いするも、「NO!!」の一点張り。
どいた。
その後は、列車と列車の繋ぎの部分でインド人4人に詰められた。
一通り詰められた後(懸命に謝った)は、「お前こっちに来い」と言われ、
今日はもうろくに寝れないな、と思っていたけど、「ここが空いている、寝ていいぞ」と。
よっしゃー!と思って寝床に入るも、途中で1人のインド人が「こっちへ来い」と。
ヒンズー語だったのだけど、要は金を出せ、と。
元々、ある程度のお金は払うつもりだったので、「いくらだ」と聞いたら、2,000ルピー(日本円3,500円程度)。
通常の2倍以上するのだろうけど、これで夜行列車で寝れるなら喜んで。言い値で支払った。
ようやく終わったな~、と思って寝床に入るも、次は別のインド人が「こっちへ来い」と。聞けば、やはり金を出せと。
「? さっき支払った」と話すと、何だと?あいつ抜け駆けか?みたいな顔をして、「ちょっと待っていろ」と。5分後、さっきのインド人含め、またインド人4人に囲まれた。
「おい、俺にも寄越せ」「もっと出せ」みたいな事を言われたけど、これはボッてるな、と思って、NOを突き付ける。
お金はお腹に隠し持っていたのだけど、ポケットが空なのをアピールして「NO MONEY!!」と必死に話してようやく理解してくれた。
本当にようやく終わり、寝床に就く。
この時、深夜1時。列車に乗って丸1日が経っていた。
1/2 4日目(デリー⇒アムリトサル)
早朝、デリーに着いたものの、実は田舎道を走っていたからか、ずっとWi-Fiが機能していなかった。当然、飛行機も予約できておらず、当日ぶっつけで航空券を買いに行った。
すると、アムリトサルへはあまり本数が出ておらず、空港には朝の9時に到着したものの、便は夜の20時発。
「デリー観光するかー」と思ったけど、ここ数日ほとんどろくに食えていなくてエネルギー切れだったので、今日はもう空港で過ごすことに。
エネルギー補給と関空で買った本の読書に時間を使ったのだけど、インドは空港を見るだけでも刺激があった。
初日のコルカタの貧困を目の当たりにした一方で、ここにいる人たちは明らかに生活レベルが高い。
メガネ率も高くて、視野の範囲内で数えてみたら、15人中確か6・7人がメガネだった。
知的で、新聞や本を読んでいる人が多かった。コルカタの貧困層はもしかしたら一生本を読まないかもしれない。ましてや、飛行機なんて乗った事もないし、乗る事もないだろう。
そんな事を感じつつ、無事に出発。
23時頃にアムリトサルへ。
到着後、濃霧に驚く。
今までの人生の中で1番濃かった。
宿へ向かうタクシーでは、本当に2m先の視界がほぼ見えない中、確かに時速50㎞を超えていた。
1/3 5日目(アムリトサル)
アムリトサルは、パキスタンとの国境まで約30㎞の中規模都市。
本当はアフガンや南スーダンなどの危険地帯に行ってみたいのだけど、命の保証が無い。
パキスタンも外務省の渡航警戒レベルはALL2(不要不急の渡航は止めてください)以上。
特に、インドとは3度も戦争を起こしており、現在は休戦中のものの、国境付近は危険地帯。
ただ、戦争の主な理由はカシミール地方の取り合いであり、アムリトサルはもう少し南なので、渡航警戒レベルは1であった。パキスタンには行けずとも、せめて近付きたい。治安のよい、アムリトサルへ行く事にしたのだった。
このアムリトサルは、シク教の聖地と言われている。
シク教は、インド人の約1.9%が信仰する宗教で、必ずターバンを巻いているのが特徴。
このシク教の人々は、インド社会ではユニークな存在で、比較的富裕層が多い。
そもそも成り立ちが面白い。インドでは、昔からイスラム教徒とヒンズー教との殺し合いが絶えない。ここ100年で見ても、インドはイギリスの植民地から独立する際、イスラム教徒とヒンズー教徒を国家の中にうまく共存させられなかったので、パキスタンをイスラム教徒の国として分離独立させた。ただ、インドとパキスタンの国境も曖昧な基準で決めたので、領土問題が発生し、戦争が生まれている。
そんな中、イスラム教とヒンズー教の教義に異を唱え、16世紀にグル・ナーナクという人物が新しい宗教(シク教)を打ち立てた。
教義は非常に現実的。
●男女差別の禁止
●同性愛差別の禁止
●タバコ・酒・麻薬の禁止
●肉を食べてOK ※牛も
●カーストを否定
●出家の禁止
●よく働く
特に最後が特徴的だろう。
働くことを通して、社会に貢献する事が最終目的である神との合一(ムクティ)に近付くという教え。働き者が多いから、自然と社会的にも裕福なのだろう。
カーストを否定し、健全な経済活動を行えている点も大きい。
こういった事を事前に勉強していたのだけど、やはり実際、空港も非常に綺麗だったし、1,700円程度で泊まった宿も清掃が行き届き、コルカタとのあまりの文化レベルの違いに「シク教すげえ。。」と思わず感動してしまった。
しかし、宿を出てからはインドの現実を知ることになる。
宿から、シク教の聖地と言われる黄金寺院(街の中心部にある)を目指して、1時間ほど歩いていたのだけど、やはり貧しい。
家や店はボロいし、汚い。そして、それ以上に貧しさを感じるのが、ゴミの多さ、加えて、その場からすぐに離れたい、と思わせる臭い。
コルカタの時にも感じた異臭。プラスチックを焦がしたような、本能的に嫌な臭い。
そして、色んな店が出ているのだけど、5~10店舗に1店舗くらいは東京の中心地並みに内装が綺麗。
キラキラの装飾類や高級な美容院?のような店が定期的に現れる。
明らかに富裕層向け。やはりここもインドか、と思った。
こうした現実に目を向けながら、黄金寺院に到着。
いつもだと、綺麗で芸術的と言われる建物(世界遺産であっても)には特に感動しないのだけど、これには思わず「おおっ・・・!!!」と声が出て、開いた口が塞がらなかった。
黄金寺院とは、仏教でいうお寺のようなもので、シク教にとっては信仰対象としては最高峰となる建物。字の如く、黄金に光り輝いている。
写真で事前に見ていたのだけど、なぜ実物は感動したのだろうか。
たぶん2つあって、1つは、1時間汚い街を歩き回った後に見たから。歩いている途中は、こんな汚い街に、黄金寺院なんてあるわけない!とさえ思っていた。街の汚さとはあまりにも対照的だった。
もう1つは、黄金寺院に入ってから気づいたのだけど、シク教の大人たちが毎日本気で清掃をしていたから。ニス(?)と雑巾で懸命に。信仰の厚さが、あの輝きを作っている。
実際に中へ入ろうとすると、ターバンの着用が義務付けられる。
シク教徒のような本物感はなく、家庭科で使った薄い三角巾みたいなものを身に付ける。
シク教のユニークさはここにもあって、イスラム教徒も僕のような無宗教も全員中に入れる。普通、聖地には簡単に入る事は出来ないだろう。
他宗教に寛容な点も、シク教をより現実的な宗教にしている。
黄金寺院は結構広いので、この日は中でのんびりしていた。
その後は、ナイトマーケットなど、夜の街を探検していたのだけど、
シク教徒の戦士の象がいくつもあるのが印象的だった。
イスラム教徒とヒンズー教徒が人口の大半を占める中で、急にシク教を創設したので、争いを吹っ掛けられることも多かったのだろう。カースト否定や肉OK、タバコ禁止など、他宗教の教義に反する内容を含めているのだから。
その事を示すように、シク教徒はターバンのほかに、短剣(今は代用品を身に付ける事もある)、腕輪などを必ず身に付けている。
自分たちの身は自分たちで守る、その教え(というより歴史)がシク教徒の中にも、街の中にも、息付いていた。
1/4 6日目(アムリトサル)
何やら、パキスタンの国境まで行けるらしい。
危険かと思いつつも、インドとパキスタンの友好の儀(通称:フラッグセレモニー)を毎日執り行っているらしい。
これは面白そうだと思い、お昼から30㎞移動して行ってみた。
2~3時間ほどやっていたのだけど、国境警備隊によるショーのようなもので、とても熱狂的。
このテンションで毎日やっているのか!と驚く。
国の威信を懸け、互いの武を見せつけ、最後には握手を交わす。
当然のように、皆銃を持っていたのだけど、本当に休戦中なのかと思いたくなるような、仲の良さを感じた。
後々調べてみると、実は国民同士は仲が良いらしい。
確かに、Sadamも印パ戦争の原因はPoliticsだと言っていた。
きっと、大半の国民は戦争なんか望んではいないのだろう。
フラッグセレモニーが終わってからは、また黄金寺院へ。
なぜか、凄く落ち着く場所になってきた。多分合計で4・5回行った。
そして、夜は最終目的地、ムンバイへ。
ムンバイの空港へ到着し、宿へタクシーで移動していたのだけど、
ここでも衝撃を受ける。
街並みが廃墟。
汚さとボロさを極めたアパートが並んでいて、到底、人間が住んでいるようには見えない。
と思えば、東京にも負けないような高層ビルが現れる。
ムンバイほど、貧富の差をまざまざと感じさせる街は世界にあるだろうか。
廃墟と高層ビルが乱立している様におかしさを感じずにはいられない。
そして、近くを見れば、毛布に包まった物体が列をなして道端に置いてある。
大量のホームレスなのだが、「物体」と言いたい。
それほど、人間とは思えないほどに、ゴミが置いてあるのかと思うほどに、
人間が捨てられているような印象を受けた。
なんなんだこの差は。
同じ人間なのに、何の違いがあってこの差が生まれるのか。
如何に自分の置かれている立場が裕福であるか。
コルカタの時と同じ気持ちになっていた。
言葉は、何も出てこない。
1/5 7日目(ムンバイ⇒タイ)
夜の便で日本へ帰国なので、4つに絞って回った。
まず、午前中にガンディー博物館とインドで有数の美術館へ。
事前に写真付きの本でガンディーの生々しさにはある程度触れ、既に感動をしていただけに、新しい発見は無かった。ただ、今回の博物館然り、ガンディーがインド国民に如何に敬愛されていたかはよく伝わった。街へ訪れればガンディーが見つかるし、何より紙幣のほとんどでガンディーが載っている。改めて、その偉人っぷりを感じさせられた。
美術館は、あたかも何でも知っているか風で歩き回った。
頭を真っ白にして、なんでこうなっているんだろう?との気持ちで観ていたけど、まだまだ難しいなー。美術を観るには、推測を立てる時代背景の知識などは必須なのだろうな。
その後は、世界一の洗濯場、ドーピーガードへ。
2008年公開映画、スラムドックミリオネアでも出てきた場所。
橋から見下ろすことが出来て観光スポットになっている。
もし、下に降りてしまうと、法外な金額を要求されるらしい。
ただこれはネットの情報だったので、逃げればいいや、と思って下に降りてみた。
降りてみると、生活圏は相当に貧しそうで、あの独特な異臭がして、早くも帰りたくなった。
しかも、肝心の洗濯場は物凄く暗くて、下が濡れていて、怖い感じがする。
目の前にあるものの、なかなか足を踏み込めずにいた。
そんな僕を見かねてか、一人のご老人が声を掛けてくれて、「案内してやるよ」と。
おお、こんな事あるのか!よしよし、と思って中へ突入。
入るとビックリ。
洗濯屋はカーストでは相当下に位置するはずなので、どれほど酷い場所なのか、と思っていたけど、実際は想像以上にテクノロジーが介在していた。
大型の乾燥機や洗浄機もあって、キッチリ分業制を敷いていた。
聞けば、ここには4,000人が住んでいて、6,000人が洗濯屋として従事しているらしい。
近辺のホテルや病院の毛布やシーツなども洗っていて、一つのクリーニング会社のようであった。これは良い意味で自分のイメージを壊してくれた。
ご老人に感謝し、チップを渡して出ていった。
最後はアジア一のスラム街と言われる、ムンバイのダラヴィー地区へ。
少し高い所からこのエリアを見下ろすと、屋根はブルーシートで覆われていて、汚さを極める。川はゴミで埋もれていて、もはや川ではない。
ただ、ここも意外。実際にダラヴィー地区を右から左へ1時間程度掛けて横断してみたのだけど、住んでいる人たちの表情にイメージするような暗さは無かった。
確かに衛生環境は悪いのだろう。その証拠にやけに子供が多く、老人は滅多に見ない。
しかし、貧しいながらもごく普通の生活が営まれているように思えた。
日本語では、スラムは貧困窟等と呼ぶそうだが、この呼び方は失礼だとさえ思った。
おそらく、昔と比べると相当に状況は改善されている。
事実、世界の貧困は2013年には対1990年で3分の1にまで急激に低下している。
スラムと称する事で、怖い、汚い、臭い、人間の住む所じゃない、などのイメージが生まれる。自分がそうだったから。レッテルを張り付けるのは良くない。
ただここで気になるのは、昨夜、道端に置いてあった大量のホームレス。
ダラヴィー地区にすら住めない人が大勢いる事になるのだけど、あの人たちは今もどこで何をしているのだろうか。
・・・余裕をもって、3時間前には空港到着。
無事に、インドを飛んだ。
1/6 8日目(タイ⇒日本)
タイ経由で帰国。3度の乗り換え。片道23時間。
18:30、無事帰国。
まとめ
1.貧富の差
インドでは、おそらくどこへ行っても感じるのであろう、貧富の差。
今回、3つの都市を回ったのだけど、例外なく、全ての都市の日常で貧富の差を強烈に感じた。
日本とはまるで違う、圧倒的な格差社会。
ムンバイの街並みやホームレスも衝撃だったし、実は黄金寺院の周辺にも大量のホームレスが眠りについていた。横200m×200mの建物の周囲を囲むように。聖地だし、人が多いから安全なのだろう。ホームレスへ寝る場所をゆるすシク教の寛容さに感銘しつつ、ここもか、と思う。
自分はなんて豊かな生まれなのだろうか、と強烈に感じたし、これが「今」現実に起きているという事実に立ち会えてよかった。日本人が知っておくべき現実ではないだろうか。
2.カースト
インドには、そこら中にゴミがある。
インド人は、列車の窓からゴミを捨てるし、駅の路線に向かって立ちしょんをする。うんこもするらしい。何かを食べてゴミが出たら、平然とポイ捨てする。これは、ゴミを収集する、という職業がインドに存在するから。
カースト制度は法律上は消滅したけど、まだまだインド社会に根を下ろしている。
厳密に言えば、カースト制度による差別はダメですよ、と言っているのであり、職業カーストは無くなっていない。
だから、ゴミ拾い屋は一生ゴミを拾い続け、生まれた子供もゴミを拾い続ける。
ゴミを捨てる人間は、捨てる事で彼らの仕事になるだろう、という論理。
ただ、近年は特にプラスチックのゴミが増え、処理が追い付かないのだろう。インドはゴミだらけ。
これは、ドーピーガードでも同じ事が見える。彼らは、生まれてから死ぬまで、一生洗濯屋として生きる。職業は変わらない。タクシードライバーもタクシードライバーのままだ。
職業はどこかのタイミングで変えられるのだろうか?
詳しくは調べていないけど、世界がIT革命により塗り替えられる中で、職業カーストは明らかな足枷となるだろう。それを証明するように、人口はほぼ同じ中国にGDPでは大差を付けられている。
職業は、インド社会の中でコミュニティとして機能しているだけに、変革には多大な困難を伴う。ただ、ITは近年現れた職業である為、どのカーストの人間も職に就くことが出来るようだ。インドがIT大国と言われたのは、カーストの事情もあるのだろう。
3.強靭な身体がほしい
食事が身体にフィットせず、ずっと60%くらいの体調だった。
そして、インドに行って下痢にもならなかったー!と思い帰国をしたら、つい昨日まで下痢と高熱に見舞われた。この1週間で40回以上の下痢。お尻が痛くなった。
今後、もし海外で働くことになれば、言語以上に身体が課題。
次5月の渡航までに、身体作りに励もう、と決意を新たにした。
※英語の勉強は保留。
4.インドは広い
今回の旅で、インドを知った気にはなるのは違う。
日本の国土の8倍以上。言っても、たった1週間インドを過ごしたに過ぎない。
インドにもう一度行くとしたら、次はネパール近くのラダックや南インドを回ってみたいな。
以上。