*映画では千代さんは・・・
*千代さんの碑
圓山臨済護国禅寺の敷地の外、公園との法地にある石碑で、明らかに立場が中途半端なシロモノです。正面は潰されています。当初は抗日國民黨が潰したと思われたのですが、内容から判断して本土軍事化が進む過程で遊興的なものとして日本軍部が潰したものを、旧日本統治時代の復旧過程で宗教的石碑とともに建て直されたものと推測します。
日治時期《臺灣日日新報》から源氏名が「歲悅」本名は「浅井千代」と分かりました。彼女は1858年(安政5年)、横浜港で生まれました。実家は「唐物商」を営み、支那(一般的に「唐」と呼ばれていた)から輸入された様々な品物を販売していました。
*台北檢番のゼネラルマネージャー
1929(昭和4)2月、常磐津歲悅は71歳で、黄疸と胆石を患い、引退を発表しました。臺北檢番は西門共樂座で盛大な「引退披露演藝會」を開催し、艋舺、北投、基隆の商人たちが集まり、歲悅師匠の引退を見守りました。
1929(昭和4)年3月、後半の芸人人生を台湾に捧げた常磐津歲悅辭世。葬儀は、檢番の監視の下、西門弘法寺(護国十善会・現在は台北天后宮)で執り行われました。
*臺灣日日新報
しかし、ここで疑問が生じます。西門弘法寺で葬儀が行われたにもかかわらず、常磐津歲悅の墓石が圓山臨済護国禅寺の隣に置かれているのはなぜでしょうか。
戦後に西門町界隈にあった西本願寺や弘法寺などが壊されて石碑や石灯籠などが林口區の竹林山觀音寺や士林區北投區に移されたという話が残っていることから、このときに臨済護国禅寺に移されたとするのが妥当だと思ひます。しかしなぜ正面が潰されているのか、それはいつなのかについての疑問は残ります。
*常磐津文字大夫流派家紋
裏面本文を讀むまでもなく、正面敷石だけ見て想像が出来ます。「藝妓師匠」・「撿番」・「料亭置屋」という文字だけで当時の日本軍が許すとは思えません。
この家紋が使える人物とは相当な上位者だとお座敷藝の経験者の意見でした。
碑の建立は1929(昭和4)年9月。
蔣渭水が台湾民衆党を結成したのが昭和2年(1927)です。台北旧市街、大稻埕には,「江山樓」、「東薈芳」、「春風得意樓」、「蓬萊閣」という四つの大きな料亭がありました。そして春風得意樓の経営者は蒋渭水です。これらは「有歌女陪侍的酒家」で女性は「藝旦」と言われていたとあります。
接待女性が全てチャイナドレスで胡弓を弾いていたというにはムリがあります。「置屋」「撿番」があったことに加えて、三味線に鼓に小唄長唄清元常磐津の世界があったと考えるのが普通だと思います。
*台灣藝妲オールスターズ
*台北西門町古地図
日治時代に台北には三箇所の檢番があったそうです。台北檢番、大稻埕檢番、そして萬華共立檢番です。台北と萬華は日本藝妓で大稻埕は台灣藝妲(Yì dá)でした。台北は日本髮で三味線を、大稻埕は旗袍(チャイナドレス)に胡弓でしたが、萬華の方は今で言ふ「枕芸者」だったらしいです。
*大安医院
花柳界ですから当然に芸事だけではなく「色事」もあるわけで、蒋渭水の大安医院の写真には診療科目が「内科・花柳科」となっています。「花柳科?」なんとも粋な表現です。
蔣渭水は社会運動家として知られていますが、大稻埕の花柳界に大きな力を持っていたことが想像できます。昭和4年石碑の常磐津女師匠が亡くなったとき蔣渭水は38歳、亡くなる2年前です。蔣渭水と石碑の女性は、なにがしらの面識、仕事上での関係があったと思っています。
*碑文裏面
碑文裏面(解読出来たもの)
常磐津(止玉)祝(仯マ)文字太夫の流れを
傅へて明治三十一年○渡る○江戸生粋 (1898)
の(懐・順)に玉を(やつ河をし)解かれふ正(潤)の(供)に
席(破)急を希望○三十三年の久しきを
塙撟○○○昇りつくし昭和四年三月退(懐)
○出○大命を○○在方り病急の○り
病裾に(千代)直くしの(撰)(掉)を(聞)き莞爾
仰して瞑す本名浅井千代享年七十一
命しるとで仕舞を
ことのの弾みから
昭和四年九月 (1929)
*臺北市榮座‧臺北檢番藝妓連の舞踊─
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千代さんは、台北檢番で若手の藝者さん達を育ててゐたのでしょう。
その場所は現在の西門です。
*ラジヲにも登場していた常磐津歲悅・・
研究論文『1925年6月の台湾に於ける芸能活動』長嶺亮子の表1、ラジオプログラムより。
1924年に東京放送局が設立されてラジオ放送が開始し、 次いで大阪放送局も設立した。 台湾放送局は、1925年6月8日展覧会第3会場交通館から実験放送として展覧会会期中の6月17日から十日間行われた。その番組表に常磐津歲悅が登場しているから、台湾を代表する芸能家であったことがわかる。
*ちよこおばちん。
そこでもう一つヘンな神様が宜蘭に居るのです。名前がちよこおばちん。
宜蘭牛埔仔永惠廟-開漳聖王に神様にされた芸者さんとされる人がいます。温泉旅館の帳場の神様で、経営不振だった温泉旅館に色々アドバイスして立て直しをしたという言い伝えがあります。宜蘭縣は1901まで臺北縣でその後臺北廳、1920から1945まで臺北州でしたので行政区が同じとなると温泉旅館の宴会に関して臺北檢番の指導を受けていたと考えられます。淺井千代さんが芸者さん指導や花代の取り決めに関係していたことが考えられます。
最後までご覧いただき有難う御座います。
台北に来られたときは、この石碑も見てください。
感謝:【五丁目的美術史專欄】
《臺灣日日新報》は藝妓回憶錄:關於圓山捷運站旁臨濟護國禪寺石碑的秘密・
2025.04.07劉錡豫 を引用しています。
ごきげんよう*











