「大豹社事件」で犠牲となった日本軍警を記念して事件發生地附近の山上に忠魂碑が1920(大正9)年頃に建てられました。

間違っても良い子の皆さんは、こんな處へ觀光に行かうなどとは思ってはイケマセヌ!こんな處へ出没するのは台灣ビジュアル辞典の直美さんか許さんぐらいしかいません。

忠魂碑の正面に参拝道の石積みが少しだけ残っていますが、山崩れでルートは幾度も変更になってる印象です。登り口から途中まではロープの手摺りがありますが、あとはケモノ道のような道なき道を登ります。

  

 

大豹溪一帶は泰雅族大豹社の居住地でしたが、1900年總督府は樟腦業者に開放し多数の事業者が山地へ入り豊富な樟腦資源のある泰雅族の生活地域は荒廃しました。大きな樟脳製造工場近くで工員による部落の女性をレイプする事件が起こり泰雅族の反抗は爆發します。

総督府は軍隊を派遣し鎮圧しようとしました。しかし大豹社頭目の瓦旦.燮促Watanmrhuwは、捕えられた人達や抵抗している人達に、抗日浴血決戰を呼び掛けた!!今で言ふとジハードみたいな感じでしょうか。日本軍の正規軍に對して游擊出擊戰を展開し對抗しました。しかし1906(明治39)年に泰雅族大豹社は敗北し1921(大正10)年頃に部族は移転させられることになりました。千人以上も居た部落でしたが、このとき僅か25世帯でした。日本人は泰雅族大豹社の居住地であったところの插角と有木に二つの隘勇監督所を設置しました。隘勇(あいゆう)とは、台湾原住民の襲撃に備えるために設けられた一連の防衛組織のことで、「隘勇線」とは、先住民族の住む山地を砦と柵で包囲して閉じ込めるものでした。泰雅人のあとに開墾に入った漢人が遺骨を集めて「萬善堂」に弔った。

 

大豹社頭目の瓦旦.燮促(Watanmrhuw)の息子樂信.瓦旦(LosinWatam)漢語:林瑞昌,日語:渡井三郎は、台灣總督府醫學學校を卒業し、泰雅族のエリートとして有名になります。二戦後には臺灣省臨時議會議員にもなり、「大豹社原社復歸陳情書」を提出して大豹社を元の泰雅族部落へ戻そうと主張したのですが、1952年叛亂罪で起訴され死刑判決を受け白色恐怖時代の犠牲者となりました。

 

今となっては・・犠牲となった日本軍警の忠魂碑は、勇敢なタイヤル族とその頭目の台灣魂を遺しているように見えました。

三峽老街でお土産に名物の牛角(クロワッサン)を買うのはいいですが、食べられるだけにしましょう。

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