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台中の北西部,大甲にある標高236メートルの鐵砧山。
山腹の南側にある墓地に、ある日本人の慰霊碑があります。大甲の住民から聖人と敬愛された志賀哲太郎。志賀哲太郎さんは公学校の代用教員に過ぎなかった。
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    山腹の道無き草むらをかき分け、その慰霊碑に辿り着く。
志賀哲太郎さんは1865年熊本県上益城(ましき)郡津森村に生まれました。この地は教育熱心な土壌だったようで、18才で四書五経、陽明学、仏書、英書も師について学んでいる。22才の時、上京し東京法律学校で学んだが、父の死により25才で帰郷。紫溟会に入って国権党員となり、九州日々新聞の記者として政治活動に挺身した。しかし、当時の政治闘争に失望し、29歳で政界から離れ、一時地元の教師なども勤めたが、 日本の台湾領有を機に新天地での教育に希望を抱き、明治2931歳で渡台した。
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  台湾語習得の目的で台北で酒店を営業するがうまくいかず、その後大甲近くの伯公坑で同郷河内村(現西区)出身の島村ソデを雇い、台湾縦貫鉄道の御用商を営んだ。ある夜、土匪の襲撃に遭い、財物は取られ、危うく命を落とすところであったが、ソデの機転により助かった。しかし、マラリヤにかかり危篤に瀕し、担ぎ込まれたのが大甲鎮瀾宮の陸軍病院であった。九死に一生を得た志賀さんはソデの看病を受け療養につとめた。療養中に教員採用の募集を知り、弁務署で面接を受けて明治321899)年大甲公学校の代用教員として着任した。当時の大甲公学校は文昌帝君を祀る文昌祠を使用し、志賀さんは文昌祠西側の一室を借りて住居としていた。その後26年間一貫して大甲での教育に従事している。
*志賀哲太郎31歳
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当時は領台直後で、公学校とはいっても、それまで孔子・朱子を祀っていた文昌廟を 改造した程度のものでした。住民の生活は不安定で、教育に対する父兄の理解も得られず、就学率はなかなか上昇しない状況でした。 志賀さんは毎週日曜日に手弁当で就学適齢期の家を一軒一軒訪ね回り、根気良く教育の尊さを 説いて回った。

 
文房具の無い者には自ら買い与え、病気の者には食べ物や絵本を持って 慰問し、学費の払えない者には自ら立替えてでも学校に通わせるなど、身銭を切った具体的な支援も惜しまなかった。
 

こうした志賀さんの姿勢に父兄達も尊敬のまなざしを向けるようになり、 就学率も向上して行った。後に大甲は台中県下第一の就学率となり、進学率も抜群で、後に台湾の各界を支える多くの人材を輩出することとなりました。志賀さんの教育方針は「慈悲」「倹約」「でしゃばらない」というもので、徳育を最優先 させていました

 

  志賀さんの地道な努力により大甲から数々の人材が輩出されるという功績の反面として、大正に入り民族運動機運の高まりを受けた教え子達が次々と民族運動に身を投じて行く危険性もありました。総督府はその功罪両面を持ち影響力の大き過ぎる一介の代用教員を本格的に官吏として取り込もうとしましたが、志賀さんは権力と自己保身の象徴に見える官服を着て、転勤を繰り返す正式教員の生活を嫌って、昇進の誘いを断り続け、一代用教員を貫き、常に住民と共に寄り添ったといいます。しかし、一代用教員とはいえ官の禄を食む者には変わりなく、 内地から来た日本人官吏としての立場、台湾人の民権、民族運動の狭間での葛藤は時代の流れと共に深まって行くことになりました。

*志賀哲太郎52歳
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 そして、遂に公学校の教師からも熱心な民族運動活動家が出現することになります。台湾文化協会の大甲における組織「大甲街文化協会」は、哲太郎さんの教え子達が組織する大甲漢学会が中心でした。哲太郎さんの民族平等、相互尊重の精神を受け継いだ教え子達は、大甲の人達に民族運動への参加を呼びかけた。しかし大正121223日には、鎮瀾宮で活動していた杜清、杜香國(教え子)親子が、治安警察法違反で逮捕された。遂に、大正13(1924)年のある日、大安出身の大甲公学校高等科学生が、日本人教師を怒らせ、教師は激怒し、岡村正巳校長に直訴。学校側は、この学生を退学処分にするため会議を開いた。このことを知った哲太郎さんは、直ぐ校長のところへ行き、処分の撤回を頼み込む。校長は、哲太郎さんの意見を聞き入れないばかりか、意見を退けた上に、「先生には、学校農園の管理をしてもらう」と教員以外の職につくことを命じた。哲太郎さんにとって教職の道を断たれることは、死を意味していた。
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大正131924)年、勤続25周年祝賀会の議が誰からともなく自然に発議され、同年1221日に大甲公学校講堂で行われることになった。哲太郎さんは、卒業生との最後の別れの機会と思い定め、広範に手紙を出して出席を呼びかけ、食事を振る舞うことにした。哲太郎さんはこれが一世一代の挙行と考え、喜んで出席した。哲太郎さんは、この25周年勤続祝賀会をもって死出の花道と考えていたのでしょう。
 
苦悩の末、 志賀さんはとうとう自決の道を選ぶ。1924年(大正13年)1229日、真冬の池に紋付き袴姿で9キロにもおよぶ 大石をくくりつけて入水自決をしたのでした。
 

公学校の運動場で行われた葬儀には1キロを超える長い行列ができ、出棺の際に通る道の両脇には住民が志賀さんへの哀悼の意を表して供えた品々が溢れ返り、途切れることが無かったという。

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*新聞記事では
「今回の行政整理に行末を悲観して信望厚き老教育者池に投身自殺す」
 
1926年(大正15年)、教え子達によって墓碑が建てられ裏面には墓碑銘が刻まれて、死因は敢えて「過労死」と記された。
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  1958年(昭和33年)時代は戦後へと移り、中華民国政府は日本政府と協議の下、日本人墓地を一か所に集結させることにした。しかし、志賀さんの教え子達による強烈な反対に遭い、結局志賀さんの墓だけは移転を免れた。更に1966年には志賀先生生誕100周年祭が墓前で挙行されました。そしてこの碑文は孫科による揮毫です。孫科とは孫文の第二子で当時の政権で行政院長(首相)まで務めた人です。この時代に、国民党政権の方針に堂々と抗ったり、日本人を堂々と祀ったりすることなど到底できる時代では無かったにも関わらず、それが易々と実現してしまっている、更には当時の政権にいた中枢人物による揮毫までなされているのは、志賀哲太郎さんに對しては特別な英雄として扱っていることがうかがわれます。

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信楽院釋尼妙誓之墓
(志賀哲太郎先生 忠婢・島村ソデ・昭和五年参月廿日寂 行年六十五歳)
島村ソデさんは志賀さんの横で今もお世話しています。
八条院暲子もソデさんみたいな忠婢はおらんのか!と言いつつ、
最後まで御覧くださり、有難う御座います。ごきげんよう。