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1028日は台灣近代化の魁、北白川宮能久親王の命日です。

台灣には公式な神社が66社、非公認の神社は200社程度もあったと言われています。そのほとんどで祭神とされているのが北白川宮能久親王です。北白川宮能久親王は仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父になり、幕府が勝利して維新派が破れてゐたら天皇になっていた人です。八条院暲子も弟の近衛天皇が12歳で亡くなったときに父の鳥羽上皇から「オマエも天皇せえへん?」と誘われたのですが、「正社員じゃないので」と断った。****

 

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  下関条約が締結され、清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与しました。しかし、コレが大きなウソで清国は台湾を統治してるなんて言える状況ではなかった。たしかに一部科挙制度の及ぶ住民もいましたが、それはわずかで律令制度・社会保障に教育制度は皆無。一部の都市部で華僑には「文字」はあったが、台湾は文字すらない社会だったのです。

 

明治28年10月28日朝716分、台湾全土平定直前台南制圧の最終段階で北白川宮能久親王は亡くなられました。皇族として初めての外地における殉職者となりました。

 

1895年(明治28年)4月に下関条約が締結され11月に樺山資紀台湾総督による台湾平定宣言がされましたが、その間に多くの犠牲者がでました。軍は近衛師団を中心に、約76,000人の兵力を投入、そのうちの10,689人が死亡、うち10,236人は戦病死。*

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とくに台湾中部彰化では激しい抵抗に会ひ、一ヶ月も駐屯。能久親王は彰化では率先して見舞いと援助にあたっていましたが、抵抗側の中心台南を目指す行軍のさなか、1018日、嘉義でマラリアを発症する。

 

 発症後も「宮」は三十八度以上の高熱を押して戦闘と行軍をつづける。最初はかごにのり、さらには担架で台南に向う。宿泊場所も劣悪でした。こうして二十一日、台南に着くころには、病状はきわめて深刻となった。悪性のマラリアに、肺炎さらには脳症を併発、うわごとを発する。

 

  二十三日の伏見宮貞愛親王を最後に面会謝絶状態となり、副総督(南進軍司令官)高島鞆之助すら面会を拒否される。二十六日には台湾総督樺山資紀も台南に到着。病状はいったん小康状態となるが、十月二十七日朝から悪化、二十八日朝七時十六分ついに死亡する。

 

 このとき、記録は定かでないが、樺山が面会、台湾平定を伝えたといわれています。台灣平定直前の死ではなく、台灣平定を聞いての死であるコダワリを誰もが感じてゐるのでしょう。

 

  この日は参謀総長から「台南ノ賊徒ヲ剿討ス、朕之ヲ嘉ミス」との勅語が伝達されることになっており、そうした名誉の日が「宮」の死と重なることになったのです。結局、「宮」は危篤状態、心肺停止状態で遺体は十一月四日に横須賀に到着、死が公表されたのは十一月六日のことでした。「皇族は勝手に死なせてもらえないのです」。
  十一月十二日国葬がとり行われ、遺体は東京の豊島岡皇族墓地に葬られました。**

 

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*北白川宮能久親王
(きたしらかわのみや よしひさ しんのう、弘化4216日(184741日) - 明治28年(1895年)1028日)

 

 
民主化が進んでいく台湾ですが、近代化への向けて活躍された御先祖様へ感謝。  ごきげんよう。
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