箱根神社の続きです。
祠と安産杉をお参りした後、九頭龍神社新宮の手水舎に行き、手を洗い口をゆすぎます。龍神様のお水を頂こうとペットボトルを差し出しました。今日は一番右の小さめな龍さんが、今日はここだよという感じを伝えてくれたので、そこからお水をいただきました。
こういう感覚は何かすごいことがあるというわけではなく、サポートするよーという感じをただ受け取っていると私は思うのです。その時は気がつかなくてもすべてに何かありがたいなと思う気持ちを育むことで感じられるのかもしれません。
そう思ったのも、ある人に見えるんですか?私も見えるようになりたいと言われた時、それはまったく意味がないことだと伝えました。根拠のない自信を持つのと同じように私はサポートされながら生きていることを信じることができるかできないかが大事で、それは自己肯定感や自己尊重を育てるのと同じことだと思います。失敗しても良いことがなくてもそれで良いのだと思えることに意味があるのだと思います。
九頭龍神社新宮にお参りした時に、神様から私へとメッセージをいただいたと知り合いに教えてもらいました。
「輪っかがいくつかついた棒?ん?錫杖?を持った僧みたいな人が地面をとんとんとしていて、その前に道がすっと広がっていく様子が見られたの。どういう意味なんだろう?」「今まで生きてきたからこそたくさんの智慧を持っているのだから、もう何も心配しないで、その道をまっすぐ歩いていけばいいんだよと言うことをおっしゃっているみたい」
今日はたまたま一緒にきてくださった僧侶の方にすぐ聴くことができました。
「錫杖の輪は遊環といって6つあります。それは六波羅蜜。今生きてる世界は此岸で、あの世とか悟りの世界を彼岸というのだけど、こちらからあちらへ渡るのに必要な6つの修行を六波羅蜜といいます。6つの修行とは、布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧。それを錫杖に例えて、地面をつきながら進んでいくということです。」
神様のメッセージと仏教の教えが一致しているように思い驚きました。神仏習合は日本の元々の感覚なのだとあらためて思いました。
そして、私はいつも神様や仏様に応援してもらっていたし、今も応援してもらえてると心から思えました。感激です。
薬師寺の執事様から教わった阿頼耶識、末那識、唯識の考えや、成田山新勝寺でいただいた菩提樹の下で得た知恵を必要な時に花が開くように見せるというメッセージにつながることなのだなと思います。
実は何度も何度も、そういうことなんだよと伝えてもらっているのに、私はまた不安に駆られ心配の種を拾っては眺めてを繰り返しています。
その度に神仏は大丈夫だよと伝えてくださっている。
いい加減学べば良いのにと自分に呆れます。

