みんなと違うコロナ渦の記憶 | 5歳娘 脳腫瘍でお空へ ずっとずっとあいしてる

5歳娘 脳腫瘍でお空へ ずっとずっとあいしてる

娘、4歳の夏、脳幹部のグリオーマDIPG になりました
頑張りぬいた娘の姿と家族の日常を綴ります
病気の周知と治療法の発展を願って!
ブログに助けられました
このブログがどなたかのお役に立てれば幸いです

先日あるテレビドラマでコロナ禍の時が描かれていました。

 

マスクをして

極力喋らず

食事は離れて一人一人

仕事は可能ならリモートワーク

園や学校はお休み

不要不急の外出は禁止

コロナ警察による厳しい目

 

などなど

 

コロナ禍を思い出す場面が多数ありました。

 

これを見ていた方の多くは

 

「そういえばこうだったな」

「コロナ禍は大変だったな」

「あの時はストレスだったな」

 

と思ったのかもしれません。

 

でも私は

「ああ、こんなだった『かな』?」

という感じでした。

 

たしかに描かれていたものは私も経験していましたが

一般的に振り返られるものは

私にとっては大変でもなんでもありませんでした。

 

だって、その時は

もう心菜の再燃が言い渡されていて

どんどん症状が悪化していて

毎日が心配で苦しくて

正直、コロナどころはなかったからです。

 

日々生活の制限が増えていき

そんな様子が毎日メディアで報じられ

ストレスを抱える人がでてきて

 

今思うと分からなくもないわけではないですが

あの時の私はすでに日常なんてとっくに奪われていたので

多くの方がつぶやく悩みが悩みに聞こえませんでした。

 

当時私が経験していたことは

コロナ禍で入院生活の大きな制限。

面会禁止どころではなく

付添者も外出禁止。

小児病棟はプレイルームさえ遊べず

ただでさえ窮屈な入院生活がますます窮屈になっていた現実。

 

ステイホームを嘆く人がいたけれど

家で過ごせることさえ幸せだったから

気持ちなんて全く理解できず。

 

最大に苦しかったのは

生きる時間がわずかだった心菜をどこにも連れて行ってあげられなかったこと。

 

心菜が行きたがっていた

各テーマパーク

温泉への宿泊

プール

ゲームセンター

全部が閉鎖。

公園の遊具でさえも遊べず

外でピクニック気分を味わうことが精いっぱい。

 

そんな中で

どんどん体の機能が奪われていく心菜。

歩けなくはなっていたけれど、なんとか座位を保てていた頃

「いつ再開しますか?」

と泣きながらいくつかのテーマパークに電話した日。

 

そして、結局

心菜が動けるうちにはそれは叶わなかった。

 

それが私のコロナ禍を思い出すときに浮かぶ記憶です。

 

ドラマを見ながら

私は随分と違うコロナ禍を過ごしてきたのだと

妙に感心してしましました。

 

すっかりなくなったコロナ騒動。

もしかしたらほとんどの人にはコロナ禍は遠い記憶なのかな。

 

私は…

そもそもコロナ騒動は

騒動でもなんでもなかったのかも。

その前に日常は崩れていから

ただの通過点。

 

1つだけハッキリとしていることは

心菜は今はいないということです。

 

コロナで遊ぶ場所がなかった頃。
「そこもコロナ?」
の心菜の声が悲しい。
結局開いてなくて連れて行ってあげられませんでした。