青渭神社(あおいじんじゃ)の御神輿は、深大寺山門から上がって深大寺の境内に入り、
大きな太鼓が打ち鳴らされながら前まで進んでいきます。
深大寺と青渭神社(あおいじんじゃ)の交流がこんなところに垣間見られます。
神社の御神輿がお寺さんの中に入って行っちゃうってなんだか凄くないですかっ!?
その御神輿を担いでいる旦那衆の法被(はっぴ)を眺めていると、
深大寺周辺の昔の地名が浮かび上がってくるのです。
法被の後ろには、たいてい「絵堂」、「野ヶ谷」、「山野」、「宿」、「又住」の
いづれかの文字が大きく入っています。
昔の深大寺村に想いをはせるには、良い機会です。
一休庵方面から深大寺山門へ、少しずつ
御神輿が向かっております。
山門下右手に青渭神社の御神輿が来ています。
この大きな太鼓が打ち鳴らされていると、
しばらくして下から御神輿が上がって来て、
山門をくぐります。
青渭神社例大祭のはっぴから見る深大寺の5つの地域名
提灯の下の方ですけれど、この写真では小さ過ぎてわかりませんね。
枠で囲った白地に文字は又住だけですね。
深大寺と青渭神社があるところとその周辺は、大きくは「深大寺」と呼ばれる土地です。
昔の地名でいうと、「武蔵国多摩郡深大寺村」…現、[東京都調布市深大寺○町]
というのが、深大寺および青渭神社があるところです。
※○には北、東、南、元が入ります。
昔、広すぎる深大寺には、次の五小名がありました。
<五小名>
1、絵堂 (えどう・えんどう)
2、野ヶ谷 (のがや)
3、山野 (さんや)
4、宿 (しゅく)
5、又住 (またずみ)
そのいわれは、例えば次のものがあります。
絵堂(えどう)
…深大寺の絵馬を納めたお堂、つまり絵馬堂があったところからそう呼ばれるようになったといわれる。
又住(またずみ)
…昔いくさがあるとみな山の中へ逃げ、又もと住んでいたところに帰って住んだことによる。
野ヶ谷と山野は地形で、宿は、宿泊施設というよりも、昔いうところの宿なんだと思います。
深大寺の地名ってわかりにくい??
この5つは、お祭りで今でも大事にされているので、その地域に住む人々の意識に
根付いていると言えます。
でも、堂山とか、殿分とか、昔、聞いたり見たりしたような気がしているんですよねぇ。
もうあまり活き活きとは使われなくなったのかもしれませんが、
今は昭和59年の調布市による町名地番整理事業により、
深大寺に元北東南を付けた「行政」って感じの町名なので、味がないと言えば味がない。
郵便や警察などをはじめとする行政側にとっては、飛び地もあった深大寺町やその前の
神代町深大寺村は、相当苦労があって町名地番整理になったことと思います。
まぁ、なんでその場所はそう呼ぶの?とか土地の名前の由来というのは、
気になり始めると、以外に気になるものです。
青渭神社(あおいじんじゃ)のお祭りからは、少なくとも
深大寺の絵堂野ヶ谷山野宿又住の5つは、今も活き活きとしている
深大寺の名前なのだと実感できます。
※ご参考
『子どものための調布市の歴史 第二版』(調布市立図書館、平成13年3月)
『住所表示の現状調査報告書』(調布市都市建設部都市計画課、平成9年3月)