文字ばかりブログでごべーん!

 

歎異抄第5条らしいけど

 

女犯偈やってるよ~♪

 

 

 

 

 

 

六角堂の夢告の「行者宿報の偈(げ)」

(通称「女犯偈にょぼんげ」)

 

行者宿報設女犯

行者宿報ニシテタトヒ女犯ストモ
我成玉女身被犯

我玉女ノ身トナリテ犯セラレン
一生之間能荘厳

一生ノ間ヨク荘厳シテ
臨終引導生極楽

臨終ニ引導シテ極楽ニ生ゼシメン

 

(親鸞)上人が女性を犯すのであれば

私が美しい女性になってお前に犯されてあげましょう

そして一生の間お前を守り

お前の臨終に際しては引導を渡して極楽へ導きましょう
(梅原猛「梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍」 より)

 

 

 

この女犯偈に対する現代の専門家の先生方のご意見のなかには

 

思うに、「行者宿報の偈」は親鸞にとっても、すぐにはよく分からないものであったのではないだろうか。

現在の我々が長い間かかってそれを追い求めようとしているのと同様、親鸞とてもその意味がすぐに飲み込めたという確証はない。

(本願寺派西勝寺・山田雅教さん)

 

親鸞はこのお告げを受けて、ひとまず意外な感じがしたはずである。

彼が祈ったのは後世のことであり、結婚のことではなかった。

それなのにお告げでは結婚の可能性が正面に押し出されていて、極楽往生はその次ぎである。

(筑波大学・今井雅晴さん『親鸞と浄土真宗』)

 

自分をもてあましやりきれない者は、いつか自分自身を見限り見捨ててしまいます。

自分自身を見捨てそうになっていた聖人に対し、太子の言葉は思いもかけない不思議な言葉でした。

(真宗大谷派太子山上宮寺さま)

 

などがあります

 

 

 

 

 

「分からない」というのは「勘違い」がどこかにあるからであり

 

それは学問の世界では「排除」されがちな、いわゆる「神秘体験(宗教体験)」をご存じないから(あるいは軽視、無視するから)ではないでしょうか?

 

 

 

ヘミシンク用語を使えば

 

学問で「排除」されがちな、非物質の世界フォーカス27以上の体験を、知識としてでもご存じなく、また、知ったとしても軽視、無視するからではないでしょうか?

 

(ただ、ヘミシンクの「フォーカス」の概念は非常にマイナーで、現状論文の俎上にあがることさえないので、これは仕方がない面もあります。逆に言えば、宗教をはじめ「非物質の世界を扱う研究」は歴史も長く、各宗教各宗派によってことばや概念は意外に膨大にあるわけです。ヘミシンクのフォーカスの概念は、非物質の世界を体系的、客観的に記述し、長年の既存宗教による「色付け」もされていないので、こちらに統一して論じていただくと読み手も理解しやすいのですが…ねw)

 

 

 

 

 

このことを踏まえ「勘違い」を確認して

 

女犯偈を終わりにしましょう

 

3つにまとめました~

 

 

 

勘違いその1

親鸞は非物質の世界がよく分からないまま「偈(げ)」を残した

 

勘違いその2

親鸞は「夢のお告げ」をそのまま書き残した

 

勘違いその3

「偈(げ)」には深い意味があるはずなので、凡人には分からない

 

ですです

 

 

 

 

 

まず、勘違いその1

 

親鸞は非物質の世界がよく分からないまま「偈(げ)」を残した

 

ですが

 

そんなはずがないでしょうw


 

 

 

 

 

非物質の世界(ヘミシンクでいうフォーカス27以上、当時の言葉でいう極楽浄土)を

 

「実際に体験した」から偈(げ)を残した

 

のです

 

 

 

書物や論説文、詩、俳句、このブログなどもそうですが

 

文章は、読者に理解、共感を得たいがために書く

 

のですw

 

親鸞ほどの知識人が「よく分からないけど偈(げ)を書いておこっかなーん♪」など思うはずがなく

 

もしそうなら「おバカの所業」ですw

 

 

 

親鸞は非物質の世界を「実際に体験」し

 

この世は幻のゲームの世界(そらごとたわごと)であり

人間は誰もがすでに救われている

 

と「完璧に理解」したので「偈(げ)」を残したのです

 

 

 

 

次に、勘違いその2

 

親鸞は「夢のお告げ」をそのまま書き残した

 

ですが

 

これもそんなはずがないでしょってのw

 

 

 

ヘミシンカーさんならお分かりの通り

 

非物質の存在からのメッセージは「非言語通信」

 

になります

 

 

 

たとえば、私のヘミシンク初期のころは

 

まず「ビジョン」がやって来て

次に「ビジョンの意味」を聞く

 

の繰り返しでした

 

 

 

非言語通信ですと、通信のあとに

 

「日本語」に書き落とす作業

 

っていうのが必要になるわけです

 

 

 

もちろん

 

いきなり日本語でやってくる非言語通信

 

だってフツーにありますので完全否定はできないのですが

 

 

 

行者宿報設女犯
我成玉女身被犯
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽

 

って「韻」まで踏んでる完成されたことばが

 

いきなりやってくるとはちと考えにくい

 

のです

(ただし、「女犯偈のことばが、親鸞の脳裏にそのままの文章としてやってきた」という前提で文献をそのまま読もうとするのは、研究者のスタンスとしては正しいです。むしろ、このブログのように「筆者のヘミシンクの体験を交えて論を進める」ほうが、学問的には邪道ですw

んなこたぁ分かって書いているのですが、「ヘミシンクは非物質の世界を体系的に客観的に記述している」ので、ヘミシンクのフォーカスの概念をベースに神秘体験を記述することが可能なわけです。むしろ、ヘミシンクのフォーカスの概念を用いることで、研究者さんらーの「分からない」が激減するはずですw)

 

 

 

 

 

それと

 

「夢告(夢のお告げ)」と言う表現に引きずられ過ぎ

 

の感があります

 

 

 

親鸞はフォーカス27(以上)の非物質の世界をたっぷり体験した後

 

この世は幻のゲームの世界(そらごとたわごと)であり

人間は誰もがすでに救われている

 

ということを「ひとこと」で表現する必要性を感じました

 

 

 

そのためには

 

「偈(げ)」というシンプルな表現方法

 

で整えて表現するのが読み手にとって理解されやすく

 

 

 

さらに、当時(現代もですが)一般的だった

 

亡き人が夢枕に立ってメッセージを言い残して去る

 

という

 

「夢告」の形式

 

が民衆に受け入れやすく、それを採用したわけです

(フォーカス27を「こまごま」伝えても「誤解される」し「基地外扱いされる」だけでした。不思議なことに、今も昔も「亡き人が夢枕に立ってメッセージを残した」という形式でおしゃべりしますと、誰もヘンな目で見ないのですね)

 

 

 

 

 

最後に、勘違いその3

 

「偈(げ)」には深い意味があるはずなので、凡人には分からない

 

ですが

 

これこそそんなはずがありませんw

 

 

 

上記の山田雅教さんは

 

思うに、「行者宿報の偈」は親鸞にとっても、すぐにはよく分からないものであったのではないだろうか。

現在の我々が長い間かかってそれを追い求めようとしているのと同様、親鸞とてもその意味がすぐに飲み込めたという確証はない。

 

といわれていますが、そうでしょうか?

 

 

 

 

 

長いので割愛していますが、六角堂の夢告には「続き」がありまして、それは

 

また、「夢告」はこれで終わりではなく、六角堂の救世観音はこの「偈」を告げた後、

「これは私の誓願であるから、お前はこれを一切群生に説き聞かせよ。」

と聖人にお命じになり、聖人がこの命に従って数千万の人々にこれを聞かせ終わったところで目が覚めた、となっています。

そして、ごく初期の親鸞聖人伝である覚如上人(親鸞聖人のひ孫)製作の『親鸞聖人伝絵』では、この「夢告」を「妻帯の許可」ではなく、「後の聖人の東国での布教伝道を予言したもの」として扱っているのです。

(大谷派西念寺さま)

 

といった感じです

 

 

 

つまり、親鸞の「偈(げ)」は

 

布教、伝道の宣言

 

でもあるのです

 

 

 

これから民衆に布教伝道するための宣言なら

 

誰にでも分かりやすいことば

 

である(で「書き残す」)のが当たり前です

 

 

 

 

 

ですので、たとえば専門家の先生が

 

思うに、「行者宿報の偈」は親鸞にとっても、すぐにはよく分からないものであったのではないだろうか。

現在の我々が長い間かかってそれを追い求めようとしているのと同様、親鸞とてもその意味がすぐに飲み込めたという確証はない。

 

というのは、「アタマが良すぎるから」としか考えられません

(皮肉ではなくw)

 

 

 

 

 

義務教育のない当時の民衆は、レトリックとか

 

難しいことは何も考えず、ストレートに読み下す

 

に決まっていますので

 

 

 

親鸞も「偈(げ)」を「ひとこと」でストレートに書いた

 

に決まっているのです

 

 

 

 

 

では、最後に「女犯偈にょぼんげ」を

 

ヘミシンクの立場から読んでみましょうw

 

(カッコ内)がヘミシンクの立場からの現代の概念語を交えた解釈です

 

 

 

お前が女性を犯すのであれば

(この物質の世界での煩悩に善悪、優劣はない。煩悩を完全に消去、軽減しようと修行することはムダなことなので、むしろ、あなたは大いに煩悩を楽しんでほしい。たとえ、煩悩に苦しみを覚えるときがあっても、それらを味わい尽くしてほしい)

 

 

私が美しい女性になってお前に犯されてあげましょう

(なぜなら、この物質の世界を終えて非物質の世界に還るとき、あなたが持って帰ることができるのは名誉、地位、財産ではなく、「体験」と「感情」だけだからだ。あなたの体験と感情だけがもっとも尊く、美しい。それは非物質の世界の「演劇学校」のクラスみんなでワイワイ言いながら、あなたがこの人生で選択したすべての体験と感情を、何度もリピート再生するほどの喜び、楽しみなのだ)

 

 

そして一生の間お前を守り

(だから、どうか安心して欲しい。あなたと同一、同質の私たち非物質の存在の「ガイド」は、物質の世界のあなたを一生の間ずっと見守っている。24時間一緒に居て、あなたが物質の世界でしか味わえない体験と感情を、私たちもともに味わっているのだ)

 

 

お前の臨終に際しては引導を渡して極楽へ導きましょう

(いずれあなたは肉体と心をこの世にお返しするが、あなたが肉体を離れた瞬間から、私たち非物質の存在たちがサポートするので、何も心配せず最期の瞬間までこの世を謳歌して欲しい。肉体を脱ぐのだから、死は痛くもかゆくもないよ。生まれ変わりを選択できるフォーカス27で、また一緒に遊べる日を待ってるぜ!)

 

 

 

 

 

しつこいのですが、親鸞はフォーカス27(以上)を体験しています

 

それが分かるのが、1つは

 

「ガイドさん」の存在

(非物質のサポート役)

 

です

 

 

 

「女犯偈にょぼんげ」の後半2行

 

「そして一生の間お前を守り、お前の臨終に際しては引導を渡して極楽へ導きましょう」

 

というセリフの内容から

 

 

 

親鸞は、世界中のヘミシンカーさんと同じように

 

ガイドさんに会って

ガイドさんの導きで非物質の世界を探索した

 

ことが明らかに分かります

 

 

 

ただ、そんなことを「こまごま」言っても理解されないので

 

偈(げ)として「ひとこと」で「誰もが全員成仏すっから安心してね」と、民衆に伝えたわけです

 

 

 

 

 

また、「女犯偈にょぼんげ」の前半2行

 

「お前が女性を犯すのであれば、私が美しい女性になってお前に犯されてあげましょう」

 

ですが

 

 

 

これ、「キャッチー」でしょう?w

 

 

 

当時(今や現代もかw)最大の煩悩である「性欲」を持ち出したら

 

人の目を惹きつけますw

(当時は「男性目線」が当たり前の時代でした)

 

 

 

そして、あろうことか

 

煩悩を消去、軽減するエキスパートであるはずの僧侶自身が

 

 

 

ごめーん!

今の仏教界ぜんぶ間違ってたわ!

比叡山での修行や勉強で「悟る」わけじゃなかったわ!

 

とばかり

 

肉体の煩悩を大肯定し

それでも人間は救われていて

肉体を卒業して非物質の世界に還ったら

そこは普遍愛の世界なので必ず楽チンチンなのよ~♪

だから苦しい修行は要らず南無阿弥陀仏だけ唱えてりゃいいのよ~♪

 

って宣言したら、そりゃあ親鸞は大人気になりますw

 

 

 

 

 

親鸞のガイドさん(非物質のサポート役)が

 

「女犯もOK牧場!」

 

と「偈(げ)の文字通り」言ったかどうかは分かりません
(親鸞がガイドさんとセックスした可能性は大。で、非物質とのそーゆー関係はごく普通にあることです。紳士ブログにつき以下割愛w)

 

 

 

 

仮に、ガイドさんに言われず

 

大きくフォーカス27(以上)を体験した後、この「女犯偈にょぼんげ」をつくったとしたら

 

親鸞の短くもキャッチーなことばで民衆を惹きつける天才的な能力がカイマ見れるってなものですw

 

 

参照:

 

 

 

次回、最終回になります~

(↑やっとかいw)